雨竜川第二弾 ヨモの変死

 ヨモというのはうちで飼っていた黒猫の名前だ。
 つやつやとした長い毛の雑種で、まだ子猫の時にどこからか貰われてきて、いつの間にか家族の一員になっていた。ヨモは大きな体としっかりした骨格を持った、どちらかというと「おデブさん猫」であった。
 自由気ままに暮らしていて、呼ばれても気が向いたときにしか近寄ってこない。
 わたしにも懐いているのかいないのか、はっきりしない態度であった。
 しかしなかなか賢いところもあり、もしもエサをあげ忘れた時でも、自分でちゃんとネズミなどを捕って食べていて、家畜のエサを勝手に食べたり、干してある鶏肉や魚を盗んだりすることは一度もなかった。

 わたしが小学校五年生のときだったと思う。
 黄昏どき、自転車に乗って家路を急ぐ私の前に、大きな黒い塊がパッと飛び出してきた。
「あっ、ヨモだ!」
 とすぐ気づいたが、わたしは避けきれずにその黒い塊にぶつかってしまった。
 大人用の自転車に三角乗りをしていて、コントロールが難しく、どうしようもなかったのだ。
 三角乗りというのは当時、サドルに腰かけたらペダルに足が届かない、背の低い子供たちがやっていた乗り方で、サドルの下のフレームの三角形の穴から片足を通して、器用にペダルを踏みながら乗るのであった。

 その当時、子供用の自転車は村に一台もなかったし、そもそも大人用自転車も一家に一台か、せいぜい二台しかなかったのだ。わたしが乗っていたのも父の自転車だった。
 前輪がヨモの上にがっと乗り上げて、グニャという感覚が伝わった。
 きっとヨモは大きな悲鳴を上げたに違いないが、バランスを取るのに必死だったわたしの耳には、何も聞こえなかった。
 一瞬のちにそのまま後輪ががっと乗り上げて、またグニャっとした。
 自転車はたまらずガシャン!と倒れた。私はハンドルから手を放したので転倒はしなかったが、ヨモはよほど驚いたのだろう、あとも振り返らずに一目散に走り去った。

「うわぁ、ヨモをひいちゃった!」
 わたしは頭の中が真っ白になった。
 こんなに重い自転車に、私の体重まで加わって、二度も轢かれたのだから、きっとヨモは大けがをしたろう、死んだかもしれない。
 自転車をやっと起こして家に帰る途中、
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
 という言葉がくり返し口をついて出た。
 わたしは本当に焦っていた。みんなに何と言おうかと胸がドキドキした。
 物置きで自転車をしまっていると、背中から完ちゃんの声がした。
「どうしたんだ、えみこ。何かあったのか?」
 わたしは、あのさ……といいながら振り向いたが、なんと完ちゃん腕の中にはヨモが抱かれていた。
「えーっ、ヨモ?ヨモ?ヨモだー!」
 わたしは完ちゃんからヨモを奪いとり、心の中でゴメンねゴメンねと繰り返しあやまりながら、何度もヨモの頭をなでた。
 思わず涙がポロポロこぼれた。
 完ちゃんはけげんな顔でわたしを見たが、わたしは何も説明しなかった。

 それからのわたしは、いつもヨモをそばに置き、今までになく愛情を注いだ。最初は勝手がちがってキョトンとしていたヨモも、徐々に私により添うようになってくれた。

 その事故があって三ケ月ほどのち、ヨモの姿が急に消えた。わたしは心配になってあちらこちら探し回ったが、ヨモの行方は全く知れなかった。

 農耕馬のアオが死んでまもなく、わが家では少しずつ農業の規模を縮めはじめていた。人間の力だけではできないことが色々と増えてきてしまったのだ。
 家畜小屋にいた豚もニワトリも飼料や糞尿の運搬がたいへんだからと全部処分されてしまい、家畜小屋は物置になっていた。特に屋根裏部屋には明かりもなく、普段使わないものが乱雑に置かれているだけだった。
 わたしも屋根裏部屋に行く用事などなかったが、勇気をふるってヨモを探しに行った。すると果たして部屋の隅のほうにヨモが寝ている。
「なんだ、ヨモ、そこにいたの。ああ、良かった!」
 わたしはランプを掲げて近づいたが、ヨモは、ピクリとも反応しない。
 何かおかしい。だんだんはっきり姿が見えてきた。
 なんとヨモは血だらけになって死んでいた。
「ヨモ!なんでヨモがこんな目に?」
 わたしはショックのあまり体が固まり声も出なかった。
 ようやくぐるりと回れ右をして、家族に知らせに母屋に駆け戻った。

 ヨモの死骸は母が運び下してくれた。母はわたしに、
「野良猫か何かとケンカでもしたんだろう。ひどくやられてるね」
 と言った。わたしは、
「野良猫なんか、最近見たことないべさ。なんでヨモが殺されなきゃなんねえんだ!」
と叫んだ。
 母に八つ当たりしてもどうにもならないのはわかっていたが、なんとも納得できない突然の別れであった。
 もしケンカでケガをしたのだとしても、早く見つけて手当してやれば、助けられたかもしれなかった。わたしは悔しくて悲しくて、なんともやりきれなかった。胸にぽっかり大きな穴があいたような気がして、しばらくは茫然としていた。
 そして、こんなことがあった屋根裏部屋には二度と行かなかった。

 ずっと後年になって知ったことだが、ヨモの変死は父と母にも別の意味で衝撃を与えていた。
「ありゃ、大きなネズミの大群に襲われたんではないかい」
 そういう母に父もうなずいて、
「屋根裏部屋に置いてあるもんには、みんな齧り痕がある。ネズミのふんもあちこちに落ちてたべ」
 と応じたという。家畜小屋はネズミの巣になってしまったようだ。
 両親は、ここ共栄での生活は、そろそろ見切り時だと考えるようになっていた。

雨竜川第二弾 炊事遠足

 古里の冬景色について東京の人に話すと、
「雪はきれいだろうけれど、冬は大変ねえ。でもそのぶん夏は涼しくていいでしょう?」
 と言われる。本当のことがわかってもらえなていない。
 じつは夏は夏で猛烈に暑いのだ。夏と冬の温度差は五十度、六十度になることもざらにある。
 七月後半から八月はじめにかけては、空気が澄み渡っていて太陽がギラギラと照りつけ、さえぎるもののない河原などにいると、暑いというのも馬鹿馬鹿しいほどの暑さに気を失いそうになる。
 それでも子供のころは、そんな夏が大好きだった。
 小学校三年生の夏休み前のこと、恒例の炊事遠足が行われることになった。
 今年は低学年の部の男子六人、女子五人の参加である。

 教頭先生と田岡先生に連れられて、わたしたちは雨竜川の土手沿いを歩いた。
 三十分ほども歩くと、川幅は狭いけれど、河原が広くて見晴らしの良い場所があった。河原にはごつごつした形の石がいっぱい散らばっている。
 石の種類には詳しくないが、よく見るといろいろな模様と色のものがあった。
 わたしたちは先生がたの指導で、なるべく平らな場所を探してご飯作りの支度をはじめた。
 
 男の子たちは火を焚くためのかまどづくりを始めた。
 女の子たちは飯ごうでごはんを焚いたり、鍋でカレーを作ったりする係である。
 わたしは飯ごう係になった。
 まず、飯ごうに入れたままの米を川の水で研いだ。米粒を落とさないように研ぐのはなかなかコツが必要だ。
 その間に男の子たちは、川原に落ちている木切れを集めて火をおこしていた。
 わたしは持ってきた飯ごうを火にかけた。木切れの燃え方で炎の出方も変わる。
 家できちんと均等に鉈で割った薪をくべるのとちがって、河原で拾ったいろんな形の木切れで火加減を均等にするのはとても難しかった。
 わたしはずっと飯ごうのそばから離れなかった。飯ごうの蓋がカタカタと音を立て始めたら、火を弱くして芯まで熱を通さなければならない。
 田岡先生がそれを見て、
「はじめチョロチョロ中パッパッ、じゅうじゅう吹いたら火をひいて、赤子泣いてもふた取るな」
 と節をつけて歌ってくれた。
「それなあに?」
 とわたしが聞くと、
「ご飯のおいしい焚き方よ。むかしからこう言われているの」
 歌の意味はすぐにわかったから、おもしろい歌だなと思ってわたしはすぐに覚えた。
 先生と一緒に声を合わせて歌っていると、順ちゃんがまだ燃えている木切れを引っ張りだして火加減を弱めてくれた。
 黒く炭になった木を引っ張ったあと、汚れた手で鼻の下をこすったので、順ちゃんの顔には黒いひげが生えたようだった。
 わたしと田岡先生は大いに笑った。

 カレー係の人たちは、ブタ肉、タマネギ、ジャガイモ、ニンジンを包丁で切って、大きな鍋で煮込んでいた。
 食欲をそそるにおいが広がり、急におなかがすいてきた。
 はじめての飯ごうすいさんで、うまく炊けるかどうか心配だったご飯は、蓋をとってみるとふっくらと炊き上がっていた。
 さあいよいよ食事の時間だ。 
 日差しを遮る木立ちもなく、わたしたちはカンカン照りの太陽のもと、思い思いに平たい石の上に座った。
 石は日に焼けて熱くなっている。そのままでは座れないので、少しずらしたり裏返したり工夫する必要があった。。
 わたしたちは早くも汗だくになりながらスプーンを口に運んだ。
「うまいっ!」「おいしい!」
 子供は正直である。
「ご飯もふっくらしていて、おいしいね」
 と、わたしは親友の良子ちゃんからほめてもらってほっとした。
 食事の後片付けを終えたら、水遊びの時間だ。教頭先生が、
「よーし、みんな川に入りなさい。男の子は洋服ぬいで、女の子はぬがなくていい!」
 と大声で指示した。
 ワーッ!とみんなで歓声を上げて、きゃあきゃあ言いながら川に入った。
 海もプールも見たことのないわたしたちだ。
 泳ぐ場所となったら川に決まっていた。
 だからみんな、流れの見極めがとてもうまかった。
 男の子たちは魚のようにスイスイ泳いでいた。
 女の子たちは着ている服が邪魔になって、スイスイとまでは行かなかったが、
 全身を水に浸してプカリプカリとよどみに浮かんでいた。
「冷たーい」「涼しーい」
 みんな大喜びだ。わたしは岸辺にしゃがんでそれを見ていた。
「あら、えみこさんは泳がないの?」
 田岡先生が心配声で聞いてきた。わたしは、
「先生、わたし、川に入れない。水がこわいんだ~」
 と泣きそうな顔で訴えた。
 昨年の秋、どういうわけか夜中に川で溺れそうになる夢を見てからというもの、
 わたしは川に入ることができなくなっていた。
「大丈夫よ。先生と一緒に入ってみましょう」
 先生ははだしになって私と手をつなぎ、川の中に入っていった。
 わたしはへっぴり腰で先生のあとからついて行った。
 少しずつ、少しずつ、水に足をつけて行った。
 川の水は思ったよりも温かかった。
「ぬるま湯みたいね」
 田岡先生が笑って言った。
 膝小僧が水につくかつかないか、水深にしたら二十センチそこそこのところで私は立ち止まった。
「先生、わたしここで泳ぎます」
 そう言ってわたしはうつ伏せになり、腕を突っ張って体を水に浸した。
 そして両足をパシャパシャさせて泳いでいるふりをした。
 田岡先生が安心して他の子のところに行ってしまったのを横目でみながら、わたしは「もういいか……」とつぶやいた。
 そして立ち上がって岸にもどり、熱くなっている石の上に腰かけて身体をかわかした。
 みんなはまだ大喜びで泳いでいる。
 いつのまにこんなにじょうずに泳げるようになったのだろう。
 もう、泳げないのは私だけなんだと思うと少し寂しかった。
 小さいときは全然こわくなかったのに、一度悪夢をみたくらいで、いったいどうして、こんなに水が苦手になってしまったのだろう。


 この日、低学年の部はまだ早い時間に下校した。わたしは何だかずっとモヤモヤしていて、家に帰ってから猫と遊んでみても本を読んでみても、まったく身が入らなかった。
 しばらくして玄関から「ただいまー」という完ちゃんの声がした。
 わたしは完ちゃんを出迎えるために玄関に向かい、彼の顔を見るやいなや、
「おい、完ちゃん。相撲をとろう!」
 と挑んだ。完ちゃんは最初あっけに取られていたが、わたしがしつこく挑発すると、
「ようし、やるか!」
 とカバンを放り投げて挑戦を受けた。
 はっけよい、のこった。
 小学校五年生になった完ちゃんは、ひと回り体が成長し、力も強くなっていた。
 わたしはすばしっこさでは負けなかったから、もろ差しになってぐいぐいしがみつき、完ちゃんを悩ませた。
 何回か相撲を取るうち、完ちゃんが弾みで私の右腕をぎゅっと引っ張った。
 するとその途端、グキンッ!と音がして私の腕は肩からはずれてしまった。
「あ、痛いっ!」
 わたしが叫ぶと完ちゃんも「あっ!」と叫んで動きを止めた。
「痛てててて、かあさ~ん、また、肩がはずれた~」
 わたしが助けを呼ぶと、母がすぐに駆けつけてきてくれた。
 じつは私は子供のころ、よく肩を脱臼するくせがあった。
 だから三年生のときには、もう自分で驚くことはなかったし、痛みも多少は我満できるようになっていた。

「あらまあ、また完二はえみこの肩を抜いたのか。えみことは相撲しちゃなんねえと言ってあったべさ」
 母は厳しく完ちゃんを叱った。
 今回はそもそもわたしが挑戦した相撲が原因で脱臼したのだが、完ちゃんは親や先生に叱られたときに、自分に非があろうとなかろうと、決して言い訳や口答えはしなかった。
 それが時には「ふてぶてしい」と言われて余計に叱られるときもあったが、わたしは「こういうところは男らしい」と思っていた。
 このときも完ちゃんの態度に便乗して、本当のことを言うと自分が母から叱られてしまうので、だまってだらんとした腕を差し出して、包帯を巻かれるままになっていた。
「仕方ねえな。夕方の汽車で治療院に連れていかねば」
 村には医者だけでなく、整体治療をしてくれる整体師さんもいなかった。
 まんいち脱臼したら、ディーゼルカーに乗って一つ先の村まで行くしかないのだ。
「完二、お父さんが帰ってきたら理由を話して、アオで迎えにきておくれと伝えるんだよ」
 叱られっぱなしになってしまった完ちゃんに、悪いことをしたなと思いながら、わたしは母と二人で夜まで過ごせるようになったことがとても嬉しく感じられて、昼間のモヤモヤは、いつの間にかどこかに消し飛んでしまった。

雨竜川第二弾 ヤチブキの花

 古里では井戸や水道よりも、家々の裏を流れている小川こそが生活用水の取水先であり排水先であった。いま考えると納得できないことではあるが、小川は洗濯場であり、ゴミ捨て場であり、それでいて顔を洗ったり口をゆすいだりすることだってある万能の水路であった。

 春の小川は童謡にある通り、いつも水かさはたっぷりと、さらさらと音を立てて流れていた。岸辺にはまだ雪が残っていたが、そのすき間すき間にはフキノトウ、ウド、アイヌネギなどが競い合うように芽吹いていた。
 わが家が洗濯場にしているところにはヤチブキの花がたくさん咲いていた。

 名前から連想するとフキの仲間みたいだが、じつはキンポウゲの仲間であり、小ぶりながら鮮やかな黄色の花をつける。白い雪をまだらに黄色く染めているヤチブキをみると、その絵に描いたような美しい光景についうっとりと見とれてしまうほどであった。
 わが家から上流のほう、少し山の斜面のになっている場所では色とりどりのカタクリが咲いていた。カタクリの花は俯いて咲くのに、その花びらの先は天に向かって逆立ちしているように自己主張をしている。わたしはカタクリの花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れるたびに、何かを語りかけてくるような錯覚を覚えた。

 これらの植物は実はどれも食べることができる。だから母に山菜を取りに行くと言って許可をもらっては、ひとりで岸辺の花を摘んで遊んだ。

 まだ風が寒くても、水が冷たくも、溶けかけた根雪ですべって転びそうになりながらも、美しい花を摘みたくてよく行ったものだ。食べるのは茎や根が主だから、そっくり抜き取って集めるのだが、そこらじゅうに沢山あったから、花がきれいに咲いているものだけを選んで摘み取った。そうすると摘み取るときにウキウキわくわくして、ずっと楽しみが続く。たくさん持って帰ると母に褒められた。

 ところがじつはわたしはそれらの山菜を、いざ食べるときにちょっと苦手で食が進まないのであった。山菜は独特の苦みがあったり、泥くさかったり、草の汁が多すぎたりで、なんだかいつも食べきれなくて残してばかりだった。

 いま東京に長年住むことになって当時を思い出すと、じつに、じつに、もったいないことをした。東京ではそんな新鮮な山菜は、絶対に手に入らないからである。

 ある日、一人で小川の岸辺にいたとき、大型のネズミのようなものが泳いでるのをみた。大きな体をしていても、とても巧みに、水面を滑るように泳いでいる姿に驚かされた。急いで家に戻って、
「かあさん、かあさん、大きなネズミが小川にいたよ。バチャバチャじゃなくて、スイーッスイーッと泳いでた」
 と報告すると、母は、
「それはきっとカワウソだよ」
 と教えてくれた。
 そうか。あれは、カワウソというのものなんだ。
 私は子供心に納得したが、今もそのとき見たカワウソのとぼけた顔を、はっきり覚えている。

 夏の暑い日には一人ではなく、兄の完ちゃんや同級生の順ちゃんと、よく川に入って遊んだ。
 岸辺の浅いところではだしの足を水に浸すと、太陽が照りつけていても暑さを忘れるほど涼しいのだった。そしてまたわたし達は、そろって額から汗がしたたり落ちるほど、一生懸命遊ぶのだった。

 普段はあえて飲み水に使うことはなかったが、こんな日に男の子たちが小川の水を手ですくって飲んでいても、誰も注意したりはしなかった。
 小川での遊びに飽きたら、下流にある雨竜川まで行ってよく魚釣りをした。

 釣り糸と釣り針と鉛のオモリを持って行くが、あとは現地調達をする。
 釣り竿は川の淵でゆれている柳の枝で、エサは、そこらじゅうにいるミミズだった。
わたしは小学校を卒業するくらいまで、平気でミミズをさわることができた。
 気味が悪いと思い始めたのは、釣りをしなくなった中学生になってからである。

 柳の枝の先に釣り糸を結んでオモリと針をつける。そしてミミズを針に付けるのである。柳の枝が短いと、岸に近いところまでしか釣り糸が届かないから、雑魚みたいなものしか釣れない。
「あっ、引いてる!」
 と思って竿をあげてみても、カジカだったりドジョウだったりするので、それらはすぐに逃がしてあげた。
 長い竿で思いきって遠くまで針を飛ばすと、雑魚とは違う手ごたえがあった。
 ビクッビクッと竿がしなったあとに、ぐぃっと強い引きがくる。
 よしっ!と竿をあげると、たいていウグイが食いついていた。
 完ちゃんは釣り名人だ。彼と一緒だとウグイは、おもしろいほどよく釣れた。
 バケツの中を満杯にして家に持って帰ると、母がハラワタを取ってくれる。
 ウグイのお腹のなかには、空気が入った透明の浮袋がある。パンパンに膨らんでいるそれを、プチプチと踵で踏みつぶすのも面白かった。
 母はそれを塩焼きにしてくれた。また開きにして一夜干しも作ってくれた。
わたしは釣るのは好きだったけれど、食べるのはあんまり得意ではなかった。

 今ではミミズを触れないのはもちろん、釣り堀で釣った魚さえも触れなくなってしまった。あのときもっと新鮮な川魚を食べておけば良かったと思うが、あとの祭りである。

 小学校二年生の時だった。夏が終わり秋になったころ、わたしは夜中に怖い夢を見た。
「あ~ん、あ~ん」
 みんな寝しずまっているというのに、家じゅうにひびきわたるほど、大声で泣いてしまった。おどろいた母が、
「えみこ、どうしたの?」
 とすばやく抱きかかえてくれたが、わたしは悪夢のショックでしばらくの間、しゃくり上げでいた。
「川に入ってたの。(ヒック)そしたらね、転んだのに(ヒック)、誰もいなかったの。フェ~ン」
 私は泣きじゃくりながら、やっと言葉をしぼりだした。
「こわい夢を見たんだね。よし、よし、もう大丈夫だよ。」
 やさしい母の声を聞くと安心した。それでも思いだしては泣き、そのたび母がギュッと抱きしめてくれた。

 悪夢の内容は六十年近く経った今でもなお、はっきりと覚えている。
 うす暗い川のまんなかでわたしは一人で立っていた。まわりには誰もいない。
水かさは膝小僧くらいあった。岸に戻ろうと思って歩いていると、突然、石につまずいてステンと転んだ。
 あわてて起きあがったけれど、足をすべらせてまた転んだ。もう全身びしょぬれだ。
 これ以上、立ちたくても立ちあがれない。冷たい、心細い~、こわい~。
 水の中で尻餅をついて座わった状態で、わたしは思いっきり助けを求めて泣き叫んだのだった。

 おかしな夢だ。わたしはこの夢のせいで、それ以降、水に漬かるのが怖くなった。
 夢で水が怖くなるなんて、どうかしてると思うけれど、本当に二度と川で泳ぐことはできなくなった。

 冬の日も裏の小川が洗濯場であることに変わりはなかった。
 まじめな母は、洗濯物がたまると雪が積もっていても、
「今日は洗濯に行く」
 と言って外に出て行った。
 こんな雪の日に母が可哀そうだと思ったわたしも、一緒についていくことにした。

 もう雪が三十センチほども積もっていて、裏の小川まですぐだと言っても歩くのさえ困難だった。わたしは何の手伝いもできないが、せめて洗濯をしている母の、時間つぶしの話し相手になれたら良いなと思っていた。

 洗濯籠を持っている母と手をつなぎ、雪で滑って転ばないように気をつけながら岸辺に下りた。わたしはもうそれだけで疲れを覚えた。

 小川は半分、雪がつもって埋もれていたけれど、それでももう半分は水がサラサラ流れていた。

 母が、衣類に洗剤をつけて洗いはじめた。
 つぎに水の流れにそって洗濯ものをバシャバシャ動かしてすすぎはじめた。
 母の手は、冷たい水で真っ赤になっていた。

 私は雪をうらめしく思った。

 夏は素足で小川に入れたのに……それがまた、ずいぶん気持ち良かったのに。
 わたしは母の気を紛らわそうと、得意のしりとりで母に挑んだ。
「ああ、今日はえみこのおかげで時間が早く過ぎた。楽しかったよ、ありがとう」
 そう言われて、わたしはとっても満足だった。

雨竜川第二弾 かつ丼の絵

 明治百年は北海道開拓百年と同義だということで、札幌市に前年できたばかりの北海道立美術館では、道内全域から秀作を集めた大規模な絵画展が開かれることになった。
 昭和四十四年、わたしが中学二年生のときの話である。

 絵が好きな秀一兄が、
「こういう展覧会は滅多にあるもんじゃねえ。えみこ、一緒に見に行かないか」
 と誘ってくれた。
 戦後モダニズムを代表する著名な洋画家の作品も、たくさん展示されているという。

 札幌、美術館、モダニズム、絵画展のどれもが、田舎住まいのわたしにはまったく縁のないものばかりで、十四歳の少女の胸をときめかせるのに十分だった。

 わたしは二つ返事で承諾し、一週間も前から興奮してろくろく眠れなかった。
 当日、わたしはセーラー服姿で兄と二人、いそいそと家を出た。
 共栄から札幌へは、ディーゼルカーで四時間もかかる。車中からの風景もものめずらしかったが、大都会札幌に着いたわたしは何もかもに圧倒されて息苦しいほどだった。

 見たこともない広い道路に、ものすごく沢山の人たち。彼らを何が待っているのか、ほとんどの人が飛ぶような速度で歩いている。車の数もすごい。特に乗用車をこれほどの数見たのは、生まれてはじめてだった。

 美術館には驚くほどの数の絵画や彫刻が展示されていて、勝手のわからないわたしは、最初のほうから展示物に見とれてしまい、兄にちょくちょく背中をつつかれながら先に進んだ。

 夕方近くなってようやくお昼ご飯をたべようということになり、兄がこぎれいな食堂に案内してくれた。注文を取りに来た女給さんに、
「カツ丼ふたつ」
 と言う兄は、普段見ている彼と違ってとても大人にみえた。
 わたしは、カツ丼ってなんだろう?とすごく気になった。
 兄と二人、さきほど見てきた美術館の絵や彫刻の話をしながら、かつ丼というものが来るのが楽しみで仕方がなかった。
 やがてフタ付きの白い丼に入った、湯気が立ち昇る食べ物がわたしの前に運ばれてきた。美味しそうな匂いがプーンと漂ってくる。
 わたしはドキドキしながら、フタをあけた。こんもりと盛られたご飯の上にトンカツが乗っていて、だしと卵がとけあっている。こんな食べ物は初めて見た。思わず身をのりだしてジーと見ていた。

「えみこ、どうしたんだ? あったかいうちに食べな」
 兄のことばに我にかえった。分厚いお肉をとりあげて、口に入れた。
 なに?このお肉、やわらかい~、甘しょっぱい。
 わたしはそれを口にふくんだまま、ニンマリした。
 こんなに美味しい食べものが世の中にあったなんて、まさに驚きである。
 あまりの美味しさに、アッというまに完食した。
 生まれて初めて食べたカツ丼の感想は「びっくらこいた」としか言えなかった。

 札幌を出て旭川まで帰ってきたときには、もうあたりはすっかり暗くなっていた。
 わたしはまつ子姉の奉公先の寮に、秀一兄は中学時代からの友人のアパートに一晩泊めてもらって、明日の朝、一緒に共栄まで帰るのだ。
 姉はわたしを銭湯に連れて行ってくれた。わたしは銭湯も初体験だった。
 真っ裸になって、大勢の知らない人と同じ風呂に入るのは少しばかり恥ずかしかった。服をぬいで浴室に入っておどろいた。あちこちでシャーシャーと音がしている。
 これはシャワーっていうんだよと、まつ子姉が教えてくれた。
 それまでわたしは、洗顔はぬれたタオルで顔をふくだけ。髪の毛は洗面器にためたお湯で洗い流すだけ。こんなに大量に飛びちる水を見たのは初めてだった。
 わたしはシャワーから出てくる水の動きが怖かった。
 それで、いくら姉にすすめられても最後までシャワーを使う気にはなれなかった。
 寮にもどると姉の寝床の隣に布団をしいて、さっそく寝る準備をした。
 姉から、美術館でどんな絵をみてきたのさ?と聞かれたが、何もかも初めて見たわたしには、何一つうまく説明できなかった。
「絵や彫刻を言葉で説明しろっていったって、難しいべさ」
 わたしは苦し紛れにそう言ったが、まつ子姉は、
「そんならここに紙と鉛筆があるから、書いて説明してよ」
 としつこく食い下がってきた。わたしは仕方なく、
「昼ご飯にはかつ丼をご馳走になりました。かつ丼はこんな形をしていました」
 と、かつ丼の絵を描いて姉にみせたのであった。

 

雨竜川第二弾 前書き草案

 私なんかが書いた本を読んでくださる奇特な方などいてくれるだろうかと、出版を迷っているとき、随筆春秋の理事長である池田さんが、
「黒木さん、本を一冊だせば人生観が変わりますよ」
 と言ってくださいました。
 その言葉がいま、その通りだったとしみじみ実感しています。

 私の生まれた古里は、いくつかの村が集まって幌加内町といいます。
 最初に本ができたあと、その幌加内町役場に連絡をさせて頂きました。
 朱鞠内ご出身の村上課長が親切に応対をしてくださり、細川町長のご厚意で幌加内広報に雨竜川発刊の記事をのせていただけました。
 あいついで幌加内町東京会会報にも載せていただけました。

 すると日を置かずに幌加内町にお住まいの方やご出身の方から、購入の依頼があいついで舞いこんできましたことに驚きと感謝でいっぱいになりました。
 あたかも北の大地に根づいていたタンポポの綿毛が風にのってフワフワあちこちへ飛んでいった一本一本が、雨竜川というネーミングのもとにヒュルヒュルと舞いもどってきたように感じました。

 皆様の心の奥底にとうとうと流れる雨竜川が今も現存していることを知ったときの喜びをどう表現したらよいでしょうか。この高揚した気持ちをおわかり頂けるでしょうか。
 私と同じ、いえ、それ以上に古里への熱い思いをもっておられることに心から嬉しく涙が出る思いでした。
 その中で、曾祖父母の家の隣りに住まわれていた御年九十三歳の男性との会話で、私は、開拓移民四世だと知りました。曾祖父母宅には、祖父の弟が同居していましたが、その家に祖父がよく訪ねていた事を覚えていてくれました。
 母が嫁いで来た時には、祖父は、すでに他界していました。仏間に飾ってある祖父の写真を、この人が私のおじいちゃんかと見ていましたが家族からは、五十一歳で列車にひかれて死んだと聞かされていました。
 寒冷地では、雪深い道路を歩くのは困難なので線路を歩くことが多かったのです。
 その男性が当時の話をよく覚えていてくれました。
 祖父はその家の姪御さんと一緒に、雪が降る日に線路を歩いて駅に向かっていたそうです。駅のまぢかで後ろから列車が来たので、あわてて避けたところ、運悪く前から来た列車にひかれたとのこと。あの事故は本当に悲惨なことで気の毒だったと話してくれました。
 私は、一緒に歩いていた女の子は助かったと思い込んでいたので、二人とも死亡していた事実を初めて知り絶句しました。その家族も我が家の家族も、突然のできごとに悲しみのどん底に落ちたであろうと想像すると胸がはちきれそうでした。
 でも曾祖父母は、長生きしたと聞き安心しました。

 こうした古里にまつわる皆様との会話は、なつかしくもあり幸せを感じるひとときです。なつかしがって下さる古里ご出身のかたたち。私の周りの東京のかたたちは、北海道開拓移民の大変さを分かってくれたと思います。
 雨竜川を発刊することが、あの地に生まれあわせた私の使命だと実感しています。
 こうした形で世の中に出せましたのは、前述の池田さん、随筆春秋代表の近藤さんをはじめ、皆さまの並々ならぬご支援のたまものと感謝の念でいっぱいでございます。
 今回第二集の発刊にあたり、皆さまがさらに古里を思い出す助けになれば、何よりの幸せと存じております。
 令和三年十一月十八日 黒木恵美子 

 

 

雨竜川第二弾 仙人と鬼婆

 小学校に入学すると、わたしは友だちといっしょにいる時間が楽しくて仕方なくなった。
 とくに夏休みが終わって二学期になるころには、低学年クラスの一年生から三年生まで、全員がすっかり友だちになっていた。

 その友だちの間で、
「猪背山には仙人がいるんだってさ」
 といううわさが飛びかったことがある。
「仙人って絵本でみた杜子春に出てくるやつかい」
「髪の毛が白くてヒゲが長いんだよ」
「魔法がつかえるんだべな」
「ばか。仙人は仙術っていうんだぞ」
 男の子たちは大いに盛り上がっていた。
「山の奥に住んでいるんだろ。みんなで見に行ってみるべ~」
 完ちゃんに誘われてわたしも行くことにした。女の子たちは怖がって加わらなかったから完ちゃんを頭にメンバーは五人になった。
「猪背山はうちの持ち山のはずでねえか。とうさんからもかあさんからも仙人がいるなんて、聞いたこともねえべ」
 とわたしは言ったが、完ちゃんは、
「仙人はなあ、空から自由におりてきて、好きなところに住むんだぞ。うちの持ち山かどうかなんて関係ないべさ」
 と知ったようなことを言った。
「よし!行こう。自分の目で確かめりゃいいさ」
 そう言ってわたしたちは、下校時にそのまま行ってみることにした。

 山道をてくてく、てくてく、かなりの距離を歩いたが、さっぱり目的地につかない。
 次第にくたびれてきて、みんなの歩みは次第にのろくなった。
 それを幸い、わたしは山の景色を楽しみながら歩くことにした。
 両手の親指と人差し指で四角形を作り、片目をつぶってそこから景色をのぞいてみる。久男叔父がカメラ撮影する前に、フレームを決めるために必ず行うクセを真似たのだ。フイルムが高価だった時代の懐かしい話だが、当時のわたしは久男叔父の行うフレームワークをすごくかっこいいと思っていた。

 色とりどりの紅葉は、指のフレームを動かすとまるで違った景色を映し出す。
 それこそ仙術のようだ。私は感動を覚えながら男の子たちの後ろをついて歩いた。

 やがて山道は消え、村の人がけもの道と呼ぶ、人やけものが踏み固めただけの草の上を歩いた。そしてしばらくすると、けもの道さえ消えてなくなった。あとはただ、背の高い雑草をかき分けかき分け、たぶんあっちだと思う方向に進むしかなかった。
 しかしその日はなんだかみんなが意地になっていて、誰も「もう引き返そう」とは言わなかった。しばらくそうして進んでいると、
「あっ!あった。あれだっ」
 と、誰かが大きな声を出した。
「どこ?どこ?」
 少し先にあばら屋が見えた。あれが仙人の住まいなのか?
 わたしたちは興奮して一斉に走り出した。
 あばら家のそばに来ると、壁に空いている穴という穴から、中をそっとのぞきこんだ。わたしもみんなと一緒に、ヤモリみたいに壁に張り付いた。
「いた!おじいさんだ」
 子供たちの気配を感じたのか、おじいさんがあばら家の外に出てきた。
「なんだ、お前ら。なんか用か」
 わたし達はワーッと叫んで一斉に逃げ出した。
 まるで追いかけられているかのように必死で逃げたが、わたしは一度振り向いたときの、おじいさんのあっけに取られた表情が記憶に残っている。
 完ちゃんが息を切らしながら叫んだ。
「ほんとうに、いたんだ!あれが、仙人なんだっ」
 男の子たちもおおっ!と呼応した。
 でもわたしは、あのおじいさんは髪の毛もそんなに白くなくて、むしろ禿げていたし、ヒゲもなかった、本当に仙人なのかなあと疑問に思った。
 けもの道までもどったところで駆け足はやめて急ぎ足になり、山道に入ったらやっとみんなはいったん立ち止まった。
「このことは俺たちだけの秘密だぞ。親にも先生にも絶対言うなよ!」
 完ちゃんが強い調子で呼びかけたので、みんなでおおっ!と声を合わせて誓いを立てた。
 帰りも同じ道のりを歩いたはずだが、帰り道のことはよく覚えていない。みんなとにかく興奮していて、さっき見た仙人のことについて噂しあった。下り道だったせいもあるかもしれないが、一生懸命に喋っていると、時間は飛ぶように過ぎていくのだということを実感した。
 その日の冒険は大成功だったが、秘密にしようという誓いを守ったのは完ちゃんと私だけだった。翌日の昼休み、教室に教頭先生が来て、
「子供たちだけで山奥に入っちゃいけない」
 と注意されてしまった。特に完ちゃんは叩かれこそしなかったが、一番厳しく怒られた。
 きっと他のみんなが夜のうちに家族に喋ってしまったのだろう。そして、翌日の給食を作りにきたお母さんのうち誰かが、教頭先生に言いつけたのだと思う。
 しかし不思議だったのは、大人たちは本当に山に仙人がいたかどうかなんて、誰も気にしていないということだった。
 我が家でもしじゅう叱られていて、大人から叱られ慣れている完ちゃんは、まったく蛙の面に小便だった。

 

 冬休みの少し前のことだったと思う。もうそこらじゅうに雪が積もってはいたが、歩くのに不自由するところまでではなかった。同級生の忠くんが、
「うちの少し先の誰もいない工場で、ときどき鬼婆が出るんだぞ」
 という。いつ出るかはわからないが、中から灯りが洩れているときに隙間からのぞくと工場の中には鬼婆がいて、ひとりでなにやらゴソゴソやっているのだという。
「ぼっさぼさの白髪頭で、なにか企んでそうな、わるそうな顔をして、ギッシギッシと音をさせてさ……」
 忠くんは鬼婆のかっこうをまねるのだが、私たちを怖がらせるのがなかなかうまかった。
「おう、それじゃあ、帰りに鬼婆を見に行こうか?」
 完ちゃんが性懲りもなくそう言うと、
「うん、行こう!行こう!」
 男の子たちはみんなで賛成した。
 わたしはむかし話の絵本に出てくる山姥、とくに包丁を研いでいて小僧さんを食うというヤツを連想して、ちょっと怖かった。しかし完ちゃんから、
「なあ、えみこも行くべ?」
 と誘われると、好奇心が恐怖に勝って、ついうなずいていた。
 わたしはこの日も仲良しの良子ちゃんたちと別れて、男の子たちの冒険に加わった。
 国道沿いにかなり歩くと、壊れかけているちょっと変わった建物があった。
 ちょうどこの日は中から明かりが洩れていた。
「おっ、こりゃ今日はいるぞ」
 忠くんはそう言って壁のすき間を覗き込んだ。
 私たちもそれにならったが、男の子たちは覗き込みながら、
「あっ、本当にいた、いた!」
「鬼婆だっ、鬼婆だ!」
 と騒ぎ始めた。わたしは中が薄暗かったので、人影が動いていることしかわからなかった。目を見開いて見ているうち、びっくりした。
 ありゃ、うちのばあちゃんだ!
 完ちゃんの手を引くと、完ちゃんも気づいたらしく渋い顔をして黙っていた。
 祖母は男の子たちの騒ぎ声を聞きつけると、
「こらっ!そこにいるのぉ、だぁれだ!」
 と、持っていたひしゃくを振り上げながら工場から出てきた。
「うわー!にげろっ、にげろ!」
 男の子たちは一斉に壁に背を向けて逃げ出した。完ちゃんと私もそのあとを追った。
 みんなが、鬼婆と言っていたのは、わたしの祖母のことだったのだ。
 来た道を一目散に逃げもどったので、校舎が見えてきた。こんどは完ちゃんは、このことを内緒にしようとは言わなかった。みんなは自然に解散したが、わたしは複雑な思いで家に帰ってきた。完ちゃんもいつになくむっつりと黙っていた。
 夕食のときには祖母はまだ帰ってきていなかった。

 わたしは母に、国道の先のほうにある壊れた建物のことを聞いた。
 その夜、わたしと完ちゃんは、それは祖父が経営していたデンプン工場であること。
 祖父が死んで廃業したが、デンプンを作る道具はそのままになっていること。
 そして時折、祖母がひとりで工場に行って、デンプン作りをしていることを知った。

 そういえば祖母はときどきデンプンをこねて作った四角い固まりをお土産に持って帰ってくれていた。わたしはそれをどこから持ってくるのか前から不思議に思ってはいたが、聞いてみたことはなかった。今日はじめてそれがわかったが、家族には祖母がクラスメイトから「鬼婆」と呼ばれていることなど絶対に言えなかったし、学校でも、
「あの鬼婆は、じつはうちのばあちゃんだ」
 とは絶対に言えないと思った。
 完ちゃんも同じ気持ちらしく、その日はずっと不機嫌に黙ったきりだった。
 そしてわたしはその日を境に、祖母が持って帰ってくれたデンプンの固まりがストーブに乗っても、以前ほど素直には喜べなくなったのである。

雨竜川第二弾 夫婦狐

 古里は一年の半分は雪に閉ざされている。その間は農業ができない。
 生活のために父や叔父、そしてのちには兄も出稼ぎに行った。

 それがあたり前だとみんなが受け入れていた。
 雪が深い間は出稼ぎに行き、雪解けと同時に帰ってくると、こんどは忙しい農作業が待っている。
ゆっくり家にいることは少なかった父との思い出は、ほとんどないと言ってもよいほどだ。
さらにわたしは、幼いころから母の後ろについてまわってばかりいたので、父がいてもほとんど話す機会がなかった。

ただ四、五歳くらいのときだったと思う。
まだ雪があちらこちらに残っている四月のこと、生涯忘れられないことが起きた。

その日は、父と母とわたしの三人だけが家にいた。
お昼御飯にしようと火鉢に網を置き、餅を焼き始めたとき、とつぜん二人が大声で言い争いを始めた。
えっ、何、どうしたの?
わたしは驚きでその場にすくんでしまった。

なにしろ隣家とは遠く離れた一軒家でのできごとである。
いくら大声で言い争っても誰かに聞かれることはない。
逆にご近所が止めに入ってきてくれるわけもない。

 わたしはそれまで聞いたことのない大人の怒鳴りあいに、すっかり怖くなってしまって、ただじっと二人を見上げていた。
 すると母が突然わたしの手を引いて、玄関に向かった。
 父が物凄い形相で、網ごと餅をわたし達に投げつけて怒鳴った。
「さっさと出ていけ!」
 息が止まりそうに緊張しているわたしの手を、母はぎゅっと握りしめて、
「では、出て行きます。今までありがとうございました」
 と言い捨てて外に出た。

 玄関を出ると母は、こらえきれずにしゃくり上げ始めた。
 母が父とケンカして涙を流しているのを見るのは初めてだった。
 わたしは泣きながら歩く母について、あてもなくさ迷い歩いた。

 上着を着るひまなどなかったから寒さがみにしみる。
 かあさん、これからどうするの?
 わたしたち、いったいどこに行くの?
 問いただしたかったが、肩をふるわせている母にそんな質問はできずにいた。わたしはただ黙って歩いた。

 ふらふらという感じて歩いて、行き着いたのは勝利叔父の家だった。
 勝利叔父はいなかったが、叔母が出てきて、
「あらあら、どうしたのそんな薄着で……。寒いから早く家に入りなさい」
 と歓迎してくれた。
 ところが部屋に入ったとたんに、
「おい、帰るぞ」
 と玄関から父の声がした。
 わたしはあっと驚いたが、父の声の調子が優しかったので安心もした。
「とうさん、どうしてここだと分かったんだべ」
 わたしは訊ねたが、父は「うん?」と言ったばかりで答えなかった。
 叔父の家を出てから、父は私と手をつないでくれた。
 私は右手は母、左手は父とつながって、うれしくてピョンピョン跳ねながら我が家に戻った。
 心配してたんだよ。おっかなかった。
 とうさん、かあさんとケンカしないでよ。
 でも仲直りしてくれて本当にほっとしたべさ。
 私は心の中で両親に語りかけた。
 わたしたちは玄関に落ちていたお餅を拾い集めて、きれいに洗って、まるで何事もなかったかの様に、ニコニコ笑いながら仲良く食べた。
こうして母と私の家出は、あっけなく終わったのだった。

 その夜のこと。
 コンコン、コンコン、と玄関の戸を叩く音が聞こえた。
「誰か来たみたいだよ」
 わたしは窓から外をのぞいた。すると茶色い動物が鼻先で玄関をたたいている。
「あれっ。犬だよ。どこの犬だべ?」
 驚いて言うと母はケラケラ笑って、
「えみこ、なに言ってんの。あれは、狐だよ」
 と言った。
 まだ幼かった私は初めて狐を見たので興味津々で窓越しに観察した。
 茶色い毛に太いしっぽ。細長くてシュッとした顔だち。たしかに、犬とは違う。
 でもこの狐、何をしに来たんだろう。
 そう思って見ていると狐は、何かをねだるように玄関先に座ってこっちを見た。
「お腹が空いているのかな」
 とわたしが言うと母が、
「春だものね、山にはまだ食べるものがないのかもしれないね」
 と言った。
 何かやれるものがあれば、やっても良いがと思って家の中を見回したが、あいにく狐が食べそうなものは何もなかった。
「ごめんね。今は何もあげられるものがない」
 そう言いながら狐を見つめていると、
 ケーン!と、遠くから獣のほえる声がした。
 それを聞くと玄関先に座っていた狐はパッと立ち上がり、土を蹴って声のしたほうに行ってしまった。
「あれは雄狐が餌を探しに来たのを、雌狐が呼び戻したんだろ。夫婦狐にちがいねえべ」
 一緒に窓の外を見ていた母がわたしに言った。
「夫婦狐かぁ」
 狐は浅く積もった雪にところどころ足跡を残していった。
 私は何もあげずに帰してしまったことを、可哀そうなことをしたなと悔やんだ。
 行儀よくお座りをしていた狐の姿は、しばらくの間、わたしの幼いまぶたに焼き付いていた。