雨竜川第二弾草稿 お化粧

                      作 黒木恵美子

                      監修 近藤 健


 

 初夏のまばゆい光のなかを母とふたり、まっ黒な影を踏みつつ歩いていると、後ろから呼び声が追いかけてきた。ふり向くと、汗だくで追いかけてきたのは、さっちゃんの母さんだった。
「ねえ、上野さんの奥さん、悪いけど明後日、出かける前に髪の毛を結ってくれないかい?」

 母はうなずいて答えた。
「ああ、良いですよ。じゃあ明後日の午前中、待ってますよ」
「ありがとう」
 さっちゃんの母さんは、喜んで帰って行った。明後日は日曜日で学校は休みじゃないか、とわたしは気がついた。
「わーい!明後日、うれしいな」
「なに言ってるの。やるのは私だよ。変な子だね」
 早く明後日が来ないかな~。わたしはワクワクする心を抑えられずに、その場でスキップした。

 母はとくべつ美容師の修行をしたわけではない。ただ素人のわりには、器用に人の髪が結えるだけだったけれど、村の女性たちは母の施術が気に入っていて、よくわが家にやって来るのであった。

 母は施術中たくさんおしゃべりをする。よく話題が尽きないものだと思ったが、それは母なりに考えがあってのことだった。

「他人に髪の毛を触られていたら、そりゃ気持ちがいいべさ。お客が眠くなってウトウトされちゃ、首がグラグラ動いて、こっちは髪が結いにくくなるんだ」

 この季節、村が目覚めるのは早い。日曜日の朝もそれは変わらなかった。わたしは父や兄姉たちが出かけるのを見送ったあとで、お客を迎えるために玄関先を掃き清めた。

 わが家の玄関先には、亡くなった祖父が、となり町の採石場から買ってきた白っぽい砂利が撒いてあった。それはすでに泥に埋もれているものも多かったが、竹ぼうきで上手にチリや木の枝を取り除いてやると、ちゃんと姿を現して、玄関まえの一角だけがとても立派に見えるのだ。

 わたしは満足して額の汗をぬぐった。

 ふと見ると、道の向かいにシロツメクサが咲いていた。わたしはそばまで行って花を摘み、

「今日は、さっちゃんも来る」

 と言いながら花びらを一つ抜いた。

「来ない、来る、来ない、来る」

 来る、で花びらが全部抜けた。もう一度やったが、結果は同じだった。

 わたしは上機嫌になって家の中にもどった。

 午前十時を回ったころ、こんにちは!と玄関で声がした。
「どうぞ、あがってください」
「おじゃまします」
 と、入って来たおばさんは、さっちゃんの手をひいていた。
 やった!やっぱり、さっちゃんも来た!私は、うれしくてピョンピョンはねた。

 さっちゃんは私の一学年上の友だちだ。小学校ではいつも会っているけれど、家で遊ぶ楽しさはまた別格だった。さっちゃんは、手になにか大事そうに持っている。

「さっちゃん、なに持ってきたの?」
「今日はね、お姉ちゃんの宝箱を持ってきたのさ」
「へぇ~何が入ってるの?」
「お化粧だよ」
「お化粧? なに、それ?」

  さっちゃんは両手で小箱をかかげて見せた。
「お姉ちゃんはね、札幌で働いてるの。いま帰って来てるから借りて来たんだあ」
「へぇ~、すごいね」
 窓際の明るいところでは、母が仕事をはじめていた。
「今日は、どんな風にしたいのさ?」
「この前のスタイルがすごく良かったから、同じようにしてもらえるかい」
「じゃあ、こっち向いて」
 と、母はおばさんの髪の毛をとかし始めた。

 私とさっちゃんは少し離れたところに陣取って、ふたりで向き合った。
「えみちゃんさあ、口紅ぬったことある?」
「ないさあ……こんな道具、初めて見た」
「じゃあ、ぬってあげる」
 さっちゃんが取り出したお姉ちゃんの口紅は、クレヨンのように真っ赤だった。
 これをぬるんだべか? わたしは胸が高鳴った。
「さきに顔を白くするよ」
 と、さっちゃんは、白い粉をわたしのほっぺたにはたきはじめた。
 左のほっぺたには目立つほど大きなアザがある。兄の完ちゃんが「実験だ」といって、自分のほっぺたとわたしのほっぺたをセメダインでくっつけたあとだ。あのときはひどい目にあった。

 さっちゃんは、そのアザを隠すかのように一生懸命はたいてくれた。
 次はいよいよ口紅だ。口紅を持つさっちゃんの手が、緊張でブルブルふるえているのが分かる。少しずつ慎重に、唇のふちにそってぬっているらしい。
「あっ!」
「えっ?」
 わたしはあわてて、お姉ちゃんの手鏡をのぞいた。
 口紅がはみ出している。

 わたしは、おかしさが汲み上げてきて、妖怪のような真っ赤な口を大きく開けてゲラゲラ笑った。さっちゃんもつられて、
「あっはははっ!」
 腹をかかえて笑いころげた。むこうの方からおばさんが、
「ひと様の家でそんな大声だしたらダメだよ~。それに、化粧道具はみっちゃんのなんだから、大事にしなさいよ~」
 と、たしなめる声がした。おばさんはさらに母に、
「うるさくして悪いねえ」
 とわびた。しかし母は返事をしない。

 わたしが母を見やると、口にピン止めを何本もくわえがら、せわしなく手を動かしていた。まったくベテランの美容師さんそっくりだ。
 わたしは宝箱に入っているお姉ちゃんの写真を見つけた。クリーム色のワンピースを着たお姉ちゃんがポーズをとってにこやかに写っていた。都会に行くとやっぱり違うんだな、ステキだなと、私はうっとり見とれていた。札幌がどんな街なのかは知らないけれど、都会へ行けば、こんなにステキになれるんだべかなと思った。

 ほどなくさっちゃんのお姉ちゃんが、わが家の玄関さきまで、直接挨拶に来てくれた。写真よりも実物のほうがもっと美人で上品だった。

「お姉ちゃんは、間違いなく村で一番のべっぴんさんだ」

 わたしは強くあこがれを感じ、いつかはお姉ちゃんのようになりたいと思った。

 ずっと後の話になるが、高校を卒業して札幌で働くことになった私は、自分で縫ったスーツを来て、自分なりにお化粧をした。わが家の玄関さきで十八歳の少女がポーズを決めて写真に写っている。その写真はいまだに大切にしている。

 それは三月のことで、背景は雪でまっ白だ。札幌行きを前にしたわたしの頭の中には、小さいころにあこがれたさっちゃんのお姉ちゃんの姿があった。しかしどうひいき目にみても、さっちゃんのお姉ちゃんの美しさにはかなわなかった。