雨竜川第二弾 早すぎたプレゼント

 子どもの日の翌日に雪が降るなんて、東京の人には想像もつかないだろう。

 朝のうちは晴れ渡っていた空が昼頃から急に暗くなって、黒々とした雲が低く垂れ込め、冷たい風が吹き渡る。そしてほんの少し鼻の奥を刺すような氷の匂いがしてくる。
それでわたしは「あっ、雪が降るな」と予感するのだ。

 昼からは体育の予定だったが、突然雪が降ってきたため国語の授業に振り替えられた。

「皆さんは母の日は知っていますね。ではどうして母の日というものができたかを知っていますか?」
 担任の田岡先生が私たちに質問した。
 後ろの席の完ちゃんがふざけて、
「父の日だけじゃ、かあさんたちが可哀そうだから」
と答えたが、私はすかさず
「完ちゃん!」
と鋭い声でたしなめた。
 完ちゃんが皆を笑わせたいのはわかっているが、わたしは田岡先生の授業を妨害するような冗談は許せないのだ。先生はにっこり微笑んで、母の日の由来を説明してくれた。

アメリカ人のアンナという女性が、亡くなったお母さんを思って教会でカーネーションを配ったのがはじまりで、お母さんに感謝を伝える日として世界に広まったんですよ」

 帰り道、私は完ちゃんに提案した。
「わたしたちも母の日に、何かかあさんにプレゼントしようよ」
 完ちゃんは、
「えー、めんどくせえ。俺は小遣いも残ってないぞ」
と言ったが、私は、
「プレゼントは物でなくったっていいのさ。何かかあさんが喜ぶお手伝いをしよう」
と答えた。

 母が喜ぶお手伝い、それはわたしに一つ心当たりがあった。
 もう何週間も前から、母は祖母から、
なお子や、もう土手下の畑に下肥を撒かなきゃならんぞ」
と言われていたのだ。

 土手下の畑というのはうちが所有する、川沿いの細い蕎麦畑のことだ。
 雨竜川の流れが変わるまではそこは結構広い畑だったので、馬を連れて行って耕すことができたが、わたしが生まれる前に流れが変わって、畑が細長く分断されてしまった。いまは大人が一足でまたげるくらいの細い畑が、我が家の上流から下流まで、うねうねと続いているだけの土地だった。
 しかも工事をして堤防を高くしたので、堤からみて川の側にあるうちの畑には、急な石段を上り下りしなければ行けなくなった。

 しかし何もせずに空き地にしておくのは勿体ないので、我が家では、少しばかりの蕎麦を作っているのであった。

 わたしは完ちゃんに提案した。
「土手下の畑に下肥を撒く仕事、私たちでいっしょにやろうよ。ばあちゃんがうるさく催促しているから、かあさんも頭が痛いはずだべ。わたしたちが手伝うと言えば喜んでくれるさ」

 下肥というのは人糞で作る肥料である。土手下の畑には肥桶を担いで往復しなければならない。肥桶は大きくて重かった。しかも汚くて臭い。
 本当はこんな仕事は父とか叔父がやれば良いのに、祖母は、
「ちょっと前までわたしがやってきた仕事だ。男衆には別の仕事が山ほどあるべ」
 と言って、母に押し付けるのだ。
 わたしは心の中で、これは祖母の嫁いびりだと思っていた。

 完ちゃんがしぶしぶ賛成してくれたので、わたしは夕食のときに家族にそう告げた。
 かあさんは喜んでくれたが、
「でも、あんたたちにはまだ無理だ。かあさんがやるよ」
 と言った。わたしはそうはさせまいと、

「肥桶に入れる量を少しずつにして何回も行ったり来たりしたら、わたしと完ちゃんにもできるよ。やらせてよ」
 と言った。それを聞いていた父が、
「やらせてみりゃいい。何事も経験だ」
 と言ったので、それで話のけりがついた。

 次の土曜日、学校が終わる少し前から、わたしは完ちゃんが逃げ出さないようにずっと見張っていた。学校が終わってすぐ、完ちゃんの襟をひきずるようにして家に帰ってくると、すぐにお昼ご飯を食べて二人で下肥を取りに行った。

 わたしは用心のため靴下を履かずに行った。

 肥桶に下肥を移す作業は今まで何度も見たことがあった。草にまみれた人糞を大きな柄杓ですくって、肥桶に移すのだ。先に私がやってみたが、柄杓から桶に移すときに早くもよろけそうになった。

「えみこ、あぶねえ。俺に貸してみろ」
 完ちゃんがすぐに交代してくれたので助かった。
 完ちゃんは器用にざぶざぶと下肥を肥桶に入れた。

 本当は二つの桶に棒を通し、真ん中を担ぎあげてバランスを取りながら歩くのだが、
わたしたちには到底そんな重いものを運ぶ自信がない。

 桶は一つだけ、棒を通して両端を二人で持って運ぶことにした。
「腰を入れて歩け、足を踏みしめろ」
 完ちゃんに声をかけてもらいながら、よろよろと土手下の畑に向かった。

 私は、父か母、あるいは優しい長兄が様子を見に来てくれるのではないかと期待していたが、みんな本当に忙しいらしく、誰も来てくれなかった。

「ぷっはー、もう疲れた」
 ようやく畑に着いて桶を下した途端に、早くも私は弱音を吐いた。
 何とか下肥をこぼさずにここまで運んできたことをかあさんに褒めて貰いたかった。

「だから言わんこっちゃねえ。手伝いなんかやめときゃ良かったんだ」
 完ちゃんはわたしに文句を言ったが、男の子だけにすぐにはへこたれず、柄杓をつかって下肥を撒き始めた。

 私たちは何度も肥壺と畑の間を往復した。少しずつにして撒いているつもりだったが、持ってきた下肥はあっという間に無くなって、また肥壺に取りに行かなければならなかった。
 この仕事をやっているうちに靴とズボンの裾は茶色に染まった。
 きっとずごい匂いがしているだろうが、もう鼻が利かなくなっていて、何も感じなかった。

 日が傾いてきて、ようやくあと半分くらいまでのところまで撒けただろうか。
「ああ、さすがに今日はもう無理だ。これで終わりにするべ」
 と完ちゃんが言った。普段の私ならそんな中途半端は許さない。
 きっと最後までやり通せたと思うが、この初めての経験にはすっかり打ちのめされていて、無言でうなずいてしまった。

 不思議なもので、もう終わり、これから帰るとなると、下肥の匂いも土の匂いも土手の草の匂いもいっせいに立ち上ってきて鼻孔をくすぐった。
 家に帰ると、母が勝手口まで迎えに出てきてくれて、
「おやおや、ご苦労様。どうだい、大変だったろう」
 とねぎらい、汚れた靴とズボンを洗い場に持って行ってくれた。

「それで、全部撒けたのかい、どうだった?」
 と母に聞かれて私は正直にまだ半分残っている、と言おうとしたが、完ちゃんがすかさず、
「もちろんさ、ぜーんぶ撒いた」
 と言い切ってしまった。私にはもうその嘘を否定する元気が出なかった。
 私は家族から、
「大変だったね、偉かったね」
 と言われるたびに罪悪感で泣きそうになった。

 間もなく季節は夏を迎え、母が植えた蕎麦はすくすくと伸びはじめた。
 ところが手前の蕎麦は背が高く、向こう側の蕎麦、つまり私たちが下肥を撒いていないところは背が低いのだ。

 七月の終わり輪越しの祭りが近づくころにはその差ははっきりとしてきた。
 何でもお見通しの母は、わたしと完ちゃんを呼んで言った。
「あんたたち、奥までちゃんと下肥を撒かなかったんだね」
 母はため息をついたが、厳しくは叱らなかった。

 蕎麦の成長の差は、母が追い肥をしてもどうにも縮まなかった。
 私はその夏じゅう、蕎麦が刈り取られてなくなるまで、蕎麦畑の近くを通るたびに胸がチクチクと痛んだ。