雨竜川第二弾 親切で死にたい

 もも子ちゃん家がどこかに引っ越してしまった年の暮れのことだった。
 古里は夕刻になると、もう寒さが身にしみるようになっていた。
 日陰に雪が積もっていて空気を冷やすのも原因だったが、小雪混じりの風が強く吹きつけて、肌を刺すのもまた辛かった。

 わが家では早々に玄関を閉めて雨戸をおろし、家の中では薪ストーブをあかあかと焚いた。

 たぶん午後9時ごろだと思うが、土間にいる家畜のところからではなく、確かに家の外側でガタンガタンと大きな音が聞こえた。音がしたのは、材木を立てかけている豚小屋の方だったと思う。怖がりの私はすぐに、
「かあさん、誰かいるみたいだよ。こわいよ!」
 と母に訴えた。
「どれどれ、見てこようかね」
 母は戸を開けて、あたり辺り一面に拡がっている暗闇に向かい、
「おぅい、誰かいるのかぁ! いたら返事しろぉ」
 と、男のような野太い声を作って叫んだ。
 しかし外は、シーンと静まり返っている。母はしばらく闇を透かして方々を見回していたが、やがて、
「誰もいないよ。大丈夫だ」
 と言いながら、中に入って戸をぴしゃりと閉めた。

 そのまま夜がふけたので、わたしは、
「さっきの音は聞き間違いだったのだ」
 と思って布団に入った。すぐにウトウトしてしまったが、そのうち玄関先で
母と誰かの大きな話し声が聞こえた。わたしはじっと耳をすませて聞いていると、
「いやあ、黙ってもぐり込んで悪いと思ったんだけんど、どうもこうも、あそこでは寒くて寝てられませんでした。こんな夜更けに起こしてすみません」

 と知らない男の人の声がする。どうやらその人が、ひと晩泊めて欲しいと家に入ってきたみたいだ。
「あそこは、外と同じようなもんだから、そりゃ寒かったでしょ」
 母の声がした。
 その言葉で、私がさっき聞いたのは、彼が立てかけてある材木の隙間に入り込んだ時に立てた音だと分かった。

 でもかあさんは、誰だか見ず知らずの人を本当に泊めてあげるのかな?
 そんなことをして大丈夫かな?
 わたしは心配になって布団の中でいっそう聞き耳を立てた。
 しかし今度は二人とも、ヒソヒソと小さな話し声になって、何を話しているかわからない。
 イヤだな、と私は思ったが、ほかの家族はみんなグーグーいびきをかいて眠っている。起きているのは母と私だけのようだ。
 私は布団を頭からかぶって、不安で胸がドキドキ高鳴るのを我慢していた。

 この男の人はもしかしたら、もも子ちゃんに酷いことをした犯人かもしれない。
 いや、実はもっと悪いヤツで、どこかで人を殺して逃げているのかもしれない。
 もしもみんなが寝静まったあとで、悪党が本性を現して殺されてしまったらどうしよう。

 いや、母は困っている人を助けているのだ。正しいことをしているのだ。
 でも、もしも明日、母が殺されていたらどうしよう。
 家族がみんな殺されてしまったらどうしよう。
 わたしも死んでしまったらどうしよう。
 布団の中であれこれ考えて、わたしは不安でいっぱいになった。
 こんなんじゃ、今夜は眠れないよう……。
 かと言って起き上がる勇気も出ず、わたしは布団の中で身悶えした。

 しかし、いつも間にか眠ってしまったようだ。目が覚めると明るくなっていた。
 玄関のところから話し声が聞こえる。母と父の声だ。そして昨晩の男の人がお礼をいうのが聞こえた。
「本当にお世話になってすみませんでした。ありがとうございました」
 あっ!おじさんが帰るんだ。母が玄関の戸を閉める音が聞こえるやいなや、わたしは布団をぱっとめくって、がばっと起き上がり、まだ寝ている完ちゃんたちを踏みつけて居間に走り込んだ。
 そしてわたしは玄関から上がってきた母にむしゃぶりついて言った。
「かあさん!生きていて良かったぁ、良かったあ」
 母はあきれた様子でわたしを見て、
「なんだ、突然何を言い出すんだ、この子は」
 と言った。
 私は昨晩起きていて、母がどこかの男の人を迎え入れて泊めてやっているのを聞いていたこと、それが不安でたまらず、寝付けなかったことを一気に話した。
「もしかして、人殺しじゃないかと思ったんだよう」
 母にしがみついている間に涙が込み上げてきた。
 そんなわたしに優しい声で、
「人殺しなんかじゃない。山から下りてくる途中で日が暮れて困っている人だったよ」
 と母は言った。
「だって、だって……」
 泣き虫のわたしの涙は止まらなくなっていた。そばで見ていた父が、
「なんだ、えみこ。甘えてないで早く顔を洗ってこい」
 と促した。
 朝食のあと、母はわたしに、
「えみこ、もしかしてもも子ちゃんのことがあったんで、それを思い出して心配になったんだべ?」
 と聞いてきた。わたしがうなずくと、
「世間には悪いヤツもいるけれども、ほとんどの人はいい人だ。困ったときはお互いさまだ。助けてやるのがあたり前さ」
 と言った。わたしが、
「でも、もし人殺しや強盗だったらどうするのさ」
 というと、母は私の目をじっと見つめて、
「そんときゃ運の尽きだ。殺されるかもしれね。だけど困っている人を見殺しにするより、親切で死にたいもんだぞ、人生は」
 と優しくわたしを諭してくれたのであった。