雨竜川第二弾 夫婦狐

 古里は一年の半分は雪に閉ざされている。その間は農業ができない。
 生活のために父や叔父、そしてのちには兄も出稼ぎに行った。

 それがあたり前だとみんなが受け入れていた。
 雪が深い間は出稼ぎに行き、雪解けと同時に帰ってくると、こんどは忙しい農作業が待っている。
ゆっくり家にいることは少なかった父との思い出は、ほとんどないと言ってもよいほどだ。
さらにわたしは、幼いころから母の後ろについてまわってばかりいたので、父がいてもほとんど話す機会がなかった。

ただ四、五歳くらいのときだったと思う。
まだ雪があちらこちらに残っている四月のこと、生涯忘れられないことが起きた。

その日は、父と母とわたしの三人だけが家にいた。
お昼御飯にしようと火鉢に網を置き、餅を焼き始めたとき、とつぜん二人が大声で言い争いを始めた。
えっ、何、どうしたの?
わたしは驚きでその場にすくんでしまった。

なにしろ隣家とは遠く離れた一軒家でのできごとである。
いくら大声で言い争っても誰かに聞かれることはない。
逆にご近所が止めに入ってきてくれるわけもない。

 わたしはそれまで聞いたことのない大人の怒鳴りあいに、すっかり怖くなってしまって、ただじっと二人を見上げていた。
 すると母が突然わたしの手を引いて、玄関に向かった。
 父が物凄い形相で、網ごと餅をわたし達に投げつけて怒鳴った。
「さっさと出ていけ!」
 息が止まりそうに緊張しているわたしの手を、母はぎゅっと握りしめて、
「では、出て行きます。今までありがとうございました」
 と言い捨てて外に出た。

 玄関を出ると母は、こらえきれずにしゃくり上げ始めた。
 母が父とケンカして涙を流しているのを見るのは初めてだった。
 わたしは泣きながら歩く母について、あてもなくさ迷い歩いた。

 上着を着るひまなどなかったから寒さがみにしみる。
 かあさん、これからどうするの?
 わたしたち、いったいどこに行くの?
 問いただしたかったが、肩をふるわせている母にそんな質問はできずにいた。わたしはただ黙って歩いた。

 ふらふらという感じて歩いて、行き着いたのは勝利叔父の家だった。
 勝利叔父はいなかったが、叔母が出てきて、
「あらあら、どうしたのそんな薄着で……。寒いから早く家に入りなさい」
 と歓迎してくれた。
 ところが部屋に入ったとたんに、
「おい、帰るぞ」
 と玄関から父の声がした。
 わたしはあっと驚いたが、父の声の調子が優しかったので安心もした。
「とうさん、どうしてここだと分かったんだべ」
 わたしは訊ねたが、父は「うん?」と言ったばかりで答えなかった。
 叔父の家を出てから、父は私と手をつないでくれた。
 私は右手は母、左手は父とつながって、うれしくてピョンピョン跳ねながら我が家に戻った。
 心配してたんだよ。おっかなかった。
 とうさん、かあさんとケンカしないでよ。
 でも仲直りしてくれて本当にほっとしたべさ。
 私は心の中で両親に語りかけた。
 わたしたちは玄関に落ちていたお餅を拾い集めて、きれいに洗って、まるで何事もなかったかの様に、ニコニコ笑いながら仲良く食べた。
こうして母と私の家出は、あっけなく終わったのだった。

 その夜のこと。
 コンコン、コンコン、と玄関の戸を叩く音が聞こえた。
「誰か来たみたいだよ」
 わたしは窓から外をのぞいた。すると茶色い動物が鼻先で玄関をたたいている。
「あれっ。犬だよ。どこの犬だべ?」
 驚いて言うと母はケラケラ笑って、
「えみこ、なに言ってんの。あれは、狐だよ」
 と言った。
 まだ幼かった私は初めて狐を見たので興味津々で窓越しに観察した。
 茶色い毛に太いしっぽ。細長くてシュッとした顔だち。たしかに、犬とは違う。
 でもこの狐、何をしに来たんだろう。
 そう思って見ていると狐は、何かをねだるように玄関先に座ってこっちを見た。
「お腹が空いているのかな」
 とわたしが言うと母が、
「春だものね、山にはまだ食べるものがないのかもしれないね」
 と言った。
 何かやれるものがあれば、やっても良いがと思って家の中を見回したが、あいにく狐が食べそうなものは何もなかった。
「ごめんね。今は何もあげられるものがない」
 そう言いながら狐を見つめていると、
 ケーン!と、遠くから獣のほえる声がした。
 それを聞くと玄関先に座っていた狐はパッと立ち上がり、土を蹴って声のしたほうに行ってしまった。
「あれは雄狐が餌を探しに来たのを、雌狐が呼び戻したんだろ。夫婦狐にちがいねえべ」
 一緒に窓の外を見ていた母がわたしに言った。
「夫婦狐かぁ」
 狐は浅く積もった雪にところどころ足跡を残していった。
 私は何もあげずに帰してしまったことを、可哀そうなことをしたなと悔やんだ。
 行儀よくお座りをしていた狐の姿は、しばらくの間、わたしの幼いまぶたに焼き付いていた。