雨竜川第二弾 前書き草案

 私なんかが書いた本を読んでくださる奇特な方などいてくれるだろうかと、出版を迷っているとき、随筆春秋の理事長である池田さんが、
「黒木さん、本を一冊だせば人生観が変わりますよ」
 と言ってくださいました。
 その言葉がいま、その通りだったとしみじみ実感しています。

 私の生まれた古里は、いくつかの村が集まって幌加内町といいます。
 最初に本ができたあと、その幌加内町役場に連絡をさせて頂きました。
 朱鞠内ご出身の村上課長が親切に応対をしてくださり、細川町長のご厚意で幌加内広報に雨竜川発刊の記事をのせていただけました。
 あいついで幌加内町東京会会報にも載せていただけました。

 すると日を置かずに幌加内町にお住まいの方やご出身の方から、購入の依頼があいついで舞いこんできましたことに驚きと感謝でいっぱいになりました。
 あたかも北の大地に根づいていたタンポポの綿毛が風にのってフワフワあちこちへ飛んでいった一本一本が、雨竜川というネーミングのもとにヒュルヒュルと舞いもどってきたように感じました。

 皆様の心の奥底にとうとうと流れる雨竜川が今も現存していることを知ったときの喜びをどう表現したらよいでしょうか。この高揚した気持ちをおわかり頂けるでしょうか。
 私と同じ、いえ、それ以上に古里への熱い思いをもっておられることに心から嬉しく涙が出る思いでした。
 その中で、曾祖父母の家の隣りに住まわれていた御年九十三歳の男性との会話で、私は、開拓移民四世だと知りました。曾祖父母宅には、祖父の弟が同居していましたが、その家に祖父がよく訪ねていた事を覚えていてくれました。
 母が嫁いで来た時には、祖父は、すでに他界していました。仏間に飾ってある祖父の写真を、この人が私のおじいちゃんかと見ていましたが家族からは、五十一歳で列車にひかれて死んだと聞かされていました。
 寒冷地では、雪深い道路を歩くのは困難なので線路を歩くことが多かったのです。
 その男性が当時の話をよく覚えていてくれました。
 祖父はその家の姪御さんと一緒に、雪が降る日に線路を歩いて駅に向かっていたそうです。駅のまぢかで後ろから列車が来たので、あわてて避けたところ、運悪く前から来た列車にひかれたとのこと。あの事故は本当に悲惨なことで気の毒だったと話してくれました。
 私は、一緒に歩いていた女の子は助かったと思い込んでいたので、二人とも死亡していた事実を初めて知り絶句しました。その家族も我が家の家族も、突然のできごとに悲しみのどん底に落ちたであろうと想像すると胸がはちきれそうでした。
 でも曾祖父母は、長生きしたと聞き安心しました。

 こうした古里にまつわる皆様との会話は、なつかしくもあり幸せを感じるひとときです。なつかしがって下さる古里ご出身のかたたち。私の周りの東京のかたたちは、北海道開拓移民の大変さを分かってくれたと思います。
 雨竜川を発刊することが、あの地に生まれあわせた私の使命だと実感しています。
 こうした形で世の中に出せましたのは、前述の池田さん、随筆春秋代表の近藤さんをはじめ、皆さまの並々ならぬご支援のたまものと感謝の念でいっぱいでございます。
 今回第二集の発刊にあたり、皆さまがさらに古里を思い出す助けになれば、何よりの幸せと存じております。
 令和三年十一月十八日 黒木恵美子