雨竜川第二弾 ヤチブキの花

 古里では井戸や水道よりも、家々の裏を流れている小川こそが生活用水の取水先であり排水先であった。いま考えると納得できないことではあるが、小川は洗濯場であり、ゴミ捨て場であり、それでいて顔を洗ったり口をゆすいだりすることだってある万能の水路であった。

 春の小川は童謡にある通り、いつも水かさはたっぷりと、さらさらと音を立てて流れていた。岸辺にはまだ雪が残っていたが、そのすき間すき間にはフキノトウ、ウド、アイヌネギなどが競い合うように芽吹いていた。
 わが家が洗濯場にしているところにはヤチブキの花がたくさん咲いていた。

 名前から連想するとフキの仲間みたいだが、じつはキンポウゲの仲間であり、小ぶりながら鮮やかな黄色の花をつける。白い雪をまだらに黄色く染めているヤチブキをみると、その絵に描いたような美しい光景についうっとりと見とれてしまうほどであった。
 わが家から上流のほう、少し山の斜面のになっている場所では色とりどりのカタクリが咲いていた。カタクリの花は俯いて咲くのに、その花びらの先は天に向かって逆立ちしているように自己主張をしている。わたしはカタクリの花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れるたびに、何かを語りかけてくるような錯覚を覚えた。

 これらの植物は実はどれも食べることができる。だから母に山菜を取りに行くと言って許可をもらっては、ひとりで岸辺の花を摘んで遊んだ。

 まだ風が寒くても、水が冷たくも、溶けかけた根雪ですべって転びそうになりながらも、美しい花を摘みたくてよく行ったものだ。食べるのは茎や根が主だから、そっくり抜き取って集めるのだが、そこらじゅうに沢山あったから、花がきれいに咲いているものだけを選んで摘み取った。そうすると摘み取るときにウキウキわくわくして、ずっと楽しみが続く。たくさん持って帰ると母に褒められた。

 ところがじつはわたしはそれらの山菜を、いざ食べるときにちょっと苦手で食が進まないのであった。山菜は独特の苦みがあったり、泥くさかったり、草の汁が多すぎたりで、なんだかいつも食べきれなくて残してばかりだった。

 いま東京に長年住むことになって当時を思い出すと、じつに、じつに、もったいないことをした。東京ではそんな新鮮な山菜は、絶対に手に入らないからである。

 ある日、一人で小川の岸辺にいたとき、大型のネズミのようなものが泳いでるのをみた。大きな体をしていても、とても巧みに、水面を滑るように泳いでいる姿に驚かされた。急いで家に戻って、
「かあさん、かあさん、大きなネズミが小川にいたよ。バチャバチャじゃなくて、スイーッスイーッと泳いでた」
 と報告すると、母は、
「それはきっとカワウソだよ」
 と教えてくれた。
 そうか。あれは、カワウソというのものなんだ。
 私は子供心に納得したが、今もそのとき見たカワウソのとぼけた顔を、はっきり覚えている。

 夏の暑い日には一人ではなく、兄の完ちゃんや同級生の順ちゃんと、よく川に入って遊んだ。
 岸辺の浅いところではだしの足を水に浸すと、太陽が照りつけていても暑さを忘れるほど涼しいのだった。そしてまたわたし達は、そろって額から汗がしたたり落ちるほど、一生懸命遊ぶのだった。

 普段はあえて飲み水に使うことはなかったが、こんな日に男の子たちが小川の水を手ですくって飲んでいても、誰も注意したりはしなかった。
 小川での遊びに飽きたら、下流にある雨竜川まで行ってよく魚釣りをした。

 釣り糸と釣り針と鉛のオモリを持って行くが、あとは現地調達をする。
 釣り竿は川の淵でゆれている柳の枝で、エサは、そこらじゅうにいるミミズだった。
わたしは小学校を卒業するくらいまで、平気でミミズをさわることができた。
 気味が悪いと思い始めたのは、釣りをしなくなった中学生になってからである。

 柳の枝の先に釣り糸を結んでオモリと針をつける。そしてミミズを針に付けるのである。柳の枝が短いと、岸に近いところまでしか釣り糸が届かないから、雑魚みたいなものしか釣れない。
「あっ、引いてる!」
 と思って竿をあげてみても、カジカだったりドジョウだったりするので、それらはすぐに逃がしてあげた。
 長い竿で思いきって遠くまで針を飛ばすと、雑魚とは違う手ごたえがあった。
 ビクッビクッと竿がしなったあとに、ぐぃっと強い引きがくる。
 よしっ!と竿をあげると、たいていウグイが食いついていた。
 完ちゃんは釣り名人だ。彼と一緒だとウグイは、おもしろいほどよく釣れた。
 バケツの中を満杯にして家に持って帰ると、母がハラワタを取ってくれる。
 ウグイのお腹のなかには、空気が入った透明の浮袋がある。パンパンに膨らんでいるそれを、プチプチと踵で踏みつぶすのも面白かった。
 母はそれを塩焼きにしてくれた。また開きにして一夜干しも作ってくれた。
わたしは釣るのは好きだったけれど、食べるのはあんまり得意ではなかった。

 今ではミミズを触れないのはもちろん、釣り堀で釣った魚さえも触れなくなってしまった。あのときもっと新鮮な川魚を食べておけば良かったと思うが、あとの祭りである。

 小学校二年生の時だった。夏が終わり秋になったころ、わたしは夜中に怖い夢を見た。
「あ~ん、あ~ん」
 みんな寝しずまっているというのに、家じゅうにひびきわたるほど、大声で泣いてしまった。おどろいた母が、
「えみこ、どうしたの?」
 とすばやく抱きかかえてくれたが、わたしは悪夢のショックでしばらくの間、しゃくり上げでいた。
「川に入ってたの。(ヒック)そしたらね、転んだのに(ヒック)、誰もいなかったの。フェ~ン」
 私は泣きじゃくりながら、やっと言葉をしぼりだした。
「こわい夢を見たんだね。よし、よし、もう大丈夫だよ。」
 やさしい母の声を聞くと安心した。それでも思いだしては泣き、そのたび母がギュッと抱きしめてくれた。

 悪夢の内容は六十年近く経った今でもなお、はっきりと覚えている。
 うす暗い川のまんなかでわたしは一人で立っていた。まわりには誰もいない。
水かさは膝小僧くらいあった。岸に戻ろうと思って歩いていると、突然、石につまずいてステンと転んだ。
 あわてて起きあがったけれど、足をすべらせてまた転んだ。もう全身びしょぬれだ。
 これ以上、立ちたくても立ちあがれない。冷たい、心細い~、こわい~。
 水の中で尻餅をついて座わった状態で、わたしは思いっきり助けを求めて泣き叫んだのだった。

 おかしな夢だ。わたしはこの夢のせいで、それ以降、水に漬かるのが怖くなった。
 夢で水が怖くなるなんて、どうかしてると思うけれど、本当に二度と川で泳ぐことはできなくなった。

 冬の日も裏の小川が洗濯場であることに変わりはなかった。
 まじめな母は、洗濯物がたまると雪が積もっていても、
「今日は洗濯に行く」
 と言って外に出て行った。
 こんな雪の日に母が可哀そうだと思ったわたしも、一緒についていくことにした。

 もう雪が三十センチほども積もっていて、裏の小川まですぐだと言っても歩くのさえ困難だった。わたしは何の手伝いもできないが、せめて洗濯をしている母の、時間つぶしの話し相手になれたら良いなと思っていた。

 洗濯籠を持っている母と手をつなぎ、雪で滑って転ばないように気をつけながら岸辺に下りた。わたしはもうそれだけで疲れを覚えた。

 小川は半分、雪がつもって埋もれていたけれど、それでももう半分は水がサラサラ流れていた。

 母が、衣類に洗剤をつけて洗いはじめた。
 つぎに水の流れにそって洗濯ものをバシャバシャ動かしてすすぎはじめた。
 母の手は、冷たい水で真っ赤になっていた。

 私は雪をうらめしく思った。

 夏は素足で小川に入れたのに……それがまた、ずいぶん気持ち良かったのに。
 わたしは母の気を紛らわそうと、得意のしりとりで母に挑んだ。
「ああ、今日はえみこのおかげで時間が早く過ぎた。楽しかったよ、ありがとう」
 そう言われて、わたしはとっても満足だった。