雨竜川第二弾 炊事遠足
古里の冬景色について東京の人に話すと、
「雪はきれいだろうけれど、冬は大変ねえ。でもそのぶん夏は涼しくていいでしょう?」
と言われる。本当のことがわかってもらえなていない。
じつは夏は夏で猛烈に暑いのだ。夏と冬の温度差は五十度、六十度になることもざらにある。
七月後半から八月はじめにかけては、空気が澄み渡っていて太陽がギラギラと照りつけ、さえぎるもののない河原などにいると、暑いというのも馬鹿馬鹿しいほどの暑さに気を失いそうになる。
それでも子供のころは、そんな夏が大好きだった。
小学校三年生の夏休み前のこと、恒例の炊事遠足が行われることになった。
今年は低学年の部の男子六人、女子五人の参加である。
教頭先生と田岡先生に連れられて、わたしたちは雨竜川の土手沿いを歩いた。
三十分ほども歩くと、川幅は狭いけれど、河原が広くて見晴らしの良い場所があった。河原にはごつごつした形の石がいっぱい散らばっている。
石の種類には詳しくないが、よく見るといろいろな模様と色のものがあった。
わたしたちは先生がたの指導で、なるべく平らな場所を探してご飯作りの支度をはじめた。
男の子たちは火を焚くためのかまどづくりを始めた。
女の子たちは飯ごうでごはんを焚いたり、鍋でカレーを作ったりする係である。
わたしは飯ごう係になった。
まず、飯ごうに入れたままの米を川の水で研いだ。米粒を落とさないように研ぐのはなかなかコツが必要だ。
その間に男の子たちは、川原に落ちている木切れを集めて火をおこしていた。
わたしは持ってきた飯ごうを火にかけた。木切れの燃え方で炎の出方も変わる。
家できちんと均等に鉈で割った薪をくべるのとちがって、河原で拾ったいろんな形の木切れで火加減を均等にするのはとても難しかった。
わたしはずっと飯ごうのそばから離れなかった。飯ごうの蓋がカタカタと音を立て始めたら、火を弱くして芯まで熱を通さなければならない。
田岡先生がそれを見て、
「はじめチョロチョロ中パッパッ、じゅうじゅう吹いたら火をひいて、赤子泣いてもふた取るな」
と節をつけて歌ってくれた。
「それなあに?」
とわたしが聞くと、
「ご飯のおいしい焚き方よ。むかしからこう言われているの」
歌の意味はすぐにわかったから、おもしろい歌だなと思ってわたしはすぐに覚えた。
先生と一緒に声を合わせて歌っていると、順ちゃんがまだ燃えている木切れを引っ張りだして火加減を弱めてくれた。
黒く炭になった木を引っ張ったあと、汚れた手で鼻の下をこすったので、順ちゃんの顔には黒いひげが生えたようだった。
わたしと田岡先生は大いに笑った。
カレー係の人たちは、ブタ肉、タマネギ、ジャガイモ、ニンジンを包丁で切って、大きな鍋で煮込んでいた。
食欲をそそるにおいが広がり、急におなかがすいてきた。
はじめての飯ごうすいさんで、うまく炊けるかどうか心配だったご飯は、蓋をとってみるとふっくらと炊き上がっていた。
さあいよいよ食事の時間だ。
日差しを遮る木立ちもなく、わたしたちはカンカン照りの太陽のもと、思い思いに平たい石の上に座った。
石は日に焼けて熱くなっている。そのままでは座れないので、少しずらしたり裏返したり工夫する必要があった。。
わたしたちは早くも汗だくになりながらスプーンを口に運んだ。
「うまいっ!」「おいしい!」
子供は正直である。
「ご飯もふっくらしていて、おいしいね」
と、わたしは親友の良子ちゃんからほめてもらってほっとした。
食事の後片付けを終えたら、水遊びの時間だ。教頭先生が、
「よーし、みんな川に入りなさい。男の子は洋服ぬいで、女の子はぬがなくていい!」
と大声で指示した。
ワーッ!とみんなで歓声を上げて、きゃあきゃあ言いながら川に入った。
海もプールも見たことのないわたしたちだ。
泳ぐ場所となったら川に決まっていた。
だからみんな、流れの見極めがとてもうまかった。
男の子たちは魚のようにスイスイ泳いでいた。
女の子たちは着ている服が邪魔になって、スイスイとまでは行かなかったが、
全身を水に浸してプカリプカリとよどみに浮かんでいた。
「冷たーい」「涼しーい」
みんな大喜びだ。わたしは岸辺にしゃがんでそれを見ていた。
「あら、えみこさんは泳がないの?」
田岡先生が心配声で聞いてきた。わたしは、
「先生、わたし、川に入れない。水がこわいんだ~」
と泣きそうな顔で訴えた。
昨年の秋、どういうわけか夜中に川で溺れそうになる夢を見てからというもの、
わたしは川に入ることができなくなっていた。
「大丈夫よ。先生と一緒に入ってみましょう」
先生ははだしになって私と手をつなぎ、川の中に入っていった。
わたしはへっぴり腰で先生のあとからついて行った。
少しずつ、少しずつ、水に足をつけて行った。
川の水は思ったよりも温かかった。
「ぬるま湯みたいね」
田岡先生が笑って言った。
膝小僧が水につくかつかないか、水深にしたら二十センチそこそこのところで私は立ち止まった。
「先生、わたしここで泳ぎます」
そう言ってわたしはうつ伏せになり、腕を突っ張って体を水に浸した。
そして両足をパシャパシャさせて泳いでいるふりをした。
田岡先生が安心して他の子のところに行ってしまったのを横目でみながら、わたしは「もういいか……」とつぶやいた。
そして立ち上がって岸にもどり、熱くなっている石の上に腰かけて身体をかわかした。
みんなはまだ大喜びで泳いでいる。
いつのまにこんなにじょうずに泳げるようになったのだろう。
もう、泳げないのは私だけなんだと思うと少し寂しかった。
小さいときは全然こわくなかったのに、一度悪夢をみたくらいで、いったいどうして、こんなに水が苦手になってしまったのだろう。
この日、低学年の部はまだ早い時間に下校した。わたしは何だかずっとモヤモヤしていて、家に帰ってから猫と遊んでみても本を読んでみても、まったく身が入らなかった。
しばらくして玄関から「ただいまー」という完ちゃんの声がした。
わたしは完ちゃんを出迎えるために玄関に向かい、彼の顔を見るやいなや、
「おい、完ちゃん。相撲をとろう!」
と挑んだ。完ちゃんは最初あっけに取られていたが、わたしがしつこく挑発すると、
「ようし、やるか!」
とカバンを放り投げて挑戦を受けた。
はっけよい、のこった。
小学校五年生になった完ちゃんは、ひと回り体が成長し、力も強くなっていた。
わたしはすばしっこさでは負けなかったから、もろ差しになってぐいぐいしがみつき、完ちゃんを悩ませた。
何回か相撲を取るうち、完ちゃんが弾みで私の右腕をぎゅっと引っ張った。
するとその途端、グキンッ!と音がして私の腕は肩からはずれてしまった。
「あ、痛いっ!」
わたしが叫ぶと完ちゃんも「あっ!」と叫んで動きを止めた。
「痛てててて、かあさ~ん、また、肩がはずれた~」
わたしが助けを呼ぶと、母がすぐに駆けつけてきてくれた。
じつは私は子供のころ、よく肩を脱臼するくせがあった。
だから三年生のときには、もう自分で驚くことはなかったし、痛みも多少は我満できるようになっていた。
「あらまあ、また完二はえみこの肩を抜いたのか。えみことは相撲しちゃなんねえと言ってあったべさ」
母は厳しく完ちゃんを叱った。
今回はそもそもわたしが挑戦した相撲が原因で脱臼したのだが、完ちゃんは親や先生に叱られたときに、自分に非があろうとなかろうと、決して言い訳や口答えはしなかった。
それが時には「ふてぶてしい」と言われて余計に叱られるときもあったが、わたしは「こういうところは男らしい」と思っていた。
このときも完ちゃんの態度に便乗して、本当のことを言うと自分が母から叱られてしまうので、だまってだらんとした腕を差し出して、包帯を巻かれるままになっていた。
「仕方ねえな。夕方の汽車で治療院に連れていかねば」
村には医者だけでなく、整体治療をしてくれる整体師さんもいなかった。
まんいち脱臼したら、ディーゼルカーに乗って一つ先の村まで行くしかないのだ。
「完二、お父さんが帰ってきたら理由を話して、アオで迎えにきておくれと伝えるんだよ」
叱られっぱなしになってしまった完ちゃんに、悪いことをしたなと思いながら、わたしは母と二人で夜まで過ごせるようになったことがとても嬉しく感じられて、昼間のモヤモヤは、いつの間にかどこかに消し飛んでしまった。