雨竜川第二弾 悲しみの彩り

 小学校三年生のとき、きょうだいのように大切にしていた馬のアオが死んだ。
 四年生になる直前に大親友の良子ちゃんが引っ越して行った。
 四年生の秋の終わりにもも子ちゃんが事件に巻き込まれて、家族で引っ越して行った。
 まつ子姉、たけ子姉は中学を卒業すると、それぞれ遠くに奉公に出てしまった。
 別れはいつも暗闇が襲い来るような感覚で、わたしの心を冷たく苛んだ。
 ちょうどひとりぼっちで取り残されて、相手の姿も声も聞こえないところで、
 わたしの心の中の声だけが、相手の名前を繰り返し、繰り返し、繰り返して呼ぶ。
 そのころまでの悲しみの彩りは決まって黒い色をしていた。

 中学二年の晩春、わたしは新しい悲しみの色を知った。
 それは真っ白で、わたしの四方に壁のように立ちはだかって、うねうねと周囲でうごめくのだが、ときどきビシッという音とともに亀裂が入り、そこから真っ赤な血が噴き出すのだ。これは自分の心の中の話である。悲しみの彩りには赤い血の色もあるということを知った。

 朱鞠内の中学は、東京の中学などとは比べものにならないくらい、生徒数が少なかった。東京で同年配の人から話を聞くと、
「一九七〇年ごろといえば生徒数がウナギ上りに増えていた時代さ。三階建ての新校舎が建っても二年、三年だけでいっぱいになってしまってね」
「校庭にカマボコみたいなプレハブ校舎を建てて、一年生はそこを使うんだけれど、安普請でさ。夏は暑くて冬は寒くて、それはもう大変だった」
 などと説明される。ひとクラスも四十五人から五十人が定員だったそうだ。

 その当時、北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内にあった私が通っていた中学校は二年生が二十人、二学期の途中で女の子が一人引っ越して行ったから十九人だった。
全校生徒合わせても六十人もいない。

 山奥の閉ざされた共栄という村から通っているわたしにとって、じもとの朱鞠内小学校から進学してきた子たちは、ずっと良い家庭の子ばかりが通っているような感覚がした。
 一家の末っ子で親兄弟から甘やかされ、共栄では人怖じなどしたことのなかったわたしだが、朱鞠内の中学校では勝手が違ってなかなか友達ができないでいた。
 わが家と同じく共栄から通っている友ちゃんだけが、お互いに気を遣わずに語り合える友達だったが、その友ちゃんが、お父さんの仕事の都合で、二学期の途中で転校することになったのである。

 このところ少しずつ親しくなっていた朱鞠内出身の文江さんと二人で、友ちゃんの家までお別れに行くことにした。私は同じ村の友ちゃんの家には小さいときからよく遊びに行っていたが、文江さんは初めての訪問だった。
 文江さんは友ちゃんの家がとても小さいのを見て驚き、屋根のノキが自分の頭より低い位置にあるのを見て驚き、窓ガラスにひびが入っていてセロテープで補修してあるのを見て驚いていた。
 そして友ちゃんのお母さんが出してくれた湯呑の中身が、じつはお茶ではなくてただの白湯だったのに気づくと、もう口をつけようとしなかった。

 友ちゃんの家から帰るとき、友ちゃんは少しのあいだ見送ってくれた。
 三人で並んで歩いているとき、文江さんは突然、
「共栄の人たちって、とても貧乏なんだね。わたしビックリしたよ」
 と言った。彼女は悪気なくものごとをはっきり言う子だったので、友ちゃんも素直に言った。
「うちはその中でも特に貧乏だからね、仕方がないよ」
 わたしは二人のやり取りにショックを受けた。
 えっ? なに? 貧乏? 貧乏のどこがいけないの。貧乏だから何だと言うの?

 わたしは文江さんの家を見たことがあった。できたばかりの国鉄の社宅だから、それはきれいな家だった。国鉄の力で建てた社宅なんだから当たり前で、人はみんな生まれ合わせたところで生活をしているだけで、貧乏がいけないなどとは思っていなかった。この日、文江さんから面と向かって貧乏と言われて初めて考え込んだ。

 貧乏とはなんだろう。お金がないこと? 洋服がないこと? 食べるものが粗末なこと?
 たしかに我が家でも兄や姉は高校に進学する余裕もなく、中卒で働いていて、とても大変だと思っていたけれど、私たちは一生懸命生きてきた。温かな家族に囲まれて、わたしはなんの不自由も感じないで暮らしていた。

 文江さんは決して、友ちゃんやわたしが貧乏だからいけないと言っていたわけではないと思う。でもなんだか大変そうだなあとか、可哀そうだなあという哀れみ、さげすむような気持を持っていたことも間違いないだろう。
 朱鞠内に住んでいる文江さんたちとは、共栄から来ている連中は違うんだという意識はあったように思う。
 わたしはこの時、心の中でビシーッと鋭い音がして、さけ目から血が噴き出したような気がした。

 物がないのは不便である。そのことで、かかなくても良い恥をかくこともあった。
 修学旅行の直前に集団行動の練習をするためということで、朱鞠内湖への遠足があった。
 ここで生まれ育った子たちにはお馴染みの場所で、珍しくもなかったろうが、転入生のわたしにとってはワクワクする経験だった。
 ところが一つ問題が起きた。担任の森先生が、
「けっこう冷えるから上着が必要だよ。各自、動きやすい上着をお母さんに用意してもらいなさい」
 と言ったのだ。
 わが家にはわたしが外に着て行ける上着はない。
 どうしよう、どうしようと思い悩んでいるうちに、いよいよ明日が遠足の日というタイミングになった。
「かあさん、じつは明日、遠足なんだけど、わたし着ていく服がないんだ。どうしたらいい?」
 わたしは半べそをかきながら母に相談した。
 母は少しの間考えていたが、やがてきっぱりと言った。
「うちには何もないねえ。今からじゃ古着を縫い直している時間もないし、ご近所に借りよう」
 そう言ってわたしを伴い、隣近所を訪ね歩いた。
 わが家は引っ越してきたばかりで、まだ近所と親しくなれていない。
 一軒目、二軒目の家ではすげなく断られてしまった。
 しかし、三軒となりのおばさんは、わたしたちを家にあげてくれて、親身になって話を聞いてくれた。
「あらまあ、可哀そうに。着ていく上着がないのかい。それじゃ良かったら、これを使って」
 と、おばさんは奥から自分のベージュのジャンパーを持ってきた。
 母はそくざに、
「ありがとうございます。ほんとに助かります」
 と言って手をのばし、自分の胸元におしあてた。
 わたしもほっとした。
 もちろん十四歳の女の子が身につけるには地味な色だったが、ぜいたくを言っている場合ではなかった。
 翌日、借りたジャンパーを制服の上に着こんで家を出た。整列して学校を出たわたしは、チラチラと横目で同級生を観察した。女の子たちは色とりどりの可愛い服を着ている。おばさん色のジャンパーを着ていのはわたしだけだった。
 でもわたしは着て行けるものが借りられただけ、とても幸運だったと考えて、貸してくれたおばさんと母に感謝した。

 朱鞠内湖は、雨竜ダム建設に伴って作られた大きな人造湖である。
 秋の湖水は柔らかい日差しを反射し、深いところは紫色に見えた。
 雨竜川の小刻みなせせらぎに慣れた私には、一見まったく動かない湖面が油絵のように感じられた。
 岸辺は深く切れ込んでいたり突き出していたり、丘が湖面にせり出して切り立った崖が境界線だった。
 よく目を凝らすと大小の島々が浮かんでいて、大きな水鳥が羽を休めていた。

 湖畔につくと自由時間がもらえた。みんなは散らばって思い思いに遊びはじめた。
 写生をする子、鬼ごっこをする子、バトミントンをする子、合唱を始める子、それぞれ楽しんでいる。
 わたしは借り物のジャンパーを少しも汚さないようにしようと決意していた。
 そのためには動きの少ない写生をするのがいいだろうと考えた。
 木の切り株を椅子代わりにして、湖面の写生を始めた。
 広く美しくキラキラ輝く朱鞠内湖は絵の題材にもってこいだった。

 最初はジャンパーを汚さないようにと細心の注意を払っていたが、そのうち写生に熱が入って夢中になった。
 ちょっとしたはずみで絵の具が地面に落ち、それを拾おうとかがんだとき、ジャンパーの裾が湿った地面についてしまった。
「あっ、しまった」
 そう思って確かめてみると、泥汚れがついている。
「借り物なのに、汚しちゃった!」
 頭の中が真っ白になった。あわてて立ち上がり、はたいてホロッたけれど、シミになってしまった。
 強くこすったらますます汚れが広がった。
「あんなに気を付けていたのに、汚すなんて……」
 わたしはとても悔しかった。すごく悲しくなった。もう写生をしている気分ではなくなった。帰り道はずっと、
「ああ、この汚れが取れなかったら、どうしたらいい?」
 とハラハラドキドキしながら帰った。
 母に訴えると、すぐに汚れを洗い落としてくれた。わたしはほっと胸をなで下ろした。

 いま考えるとこれも貧しさゆえの苦労だったのか。
 母とあのおばさんがいなかったら、身を刺すような冷たい秋風が吹く中を、薄い制服だけで朱鞠内湖に行かなければならなかっただろう。
 そしたら文江さんたちにまた何と思われたか。
 当時を思い出すたび、着ていく服がないと半べそをかいて母に訴えていた十四歳の自分の顔がよみがえる。
 切なさで胸がいっぱいになる。これを貧乏というのだろうか。

 いよいよ修学旅行が間近にせまった。行き先は道内屈指の観光地、函館である。
担任の森先生が、
「宿の部屋割りを発表する」
 と言った。
「上野さん、合川さん、川田さん」
 森先生がそう発表したので、わたしはとても嬉しくなった。
 わたし、文江さん、小百合さんの三人組だ。
 文江さんは個性的なところはあるが、さっぱりした性格で、友ちゃんが転出したいまはクラスで一番の友達だ。
 小百合さんは無口で大人しい人で、いつも周囲に気遣いしてくれる接しやすい子だった。
「この三人とならば、修学旅行も楽しいべ」
 わたしはそう思ったのだ。ところが次の瞬間、
「いやだー、嫌ですー!」
 教室中に川田小百合さんの泣き声が響いた。
「上野さん、合川さんとじゃ嫌だー。よく知らない人と同じグループは嫌だ!」
 小百合さんは机の上に突っ伏して、ポタポタと大粒の涙を落した。
「イヤです。グループを変えて下さい……」
 と泣きながら訴えている。
 えっ? なに? どういうこと?
 余りに意外な成り行きに、わたしは固まってしまった。
 森先生も宿舎の部屋割りが不満で大泣きされたのは初めてだったのだろう。
 まったく何も言わずに、ただ小百合さんを見つめていた。
 日ごろ自己主張をすることのない小百合さんだから、今回の部屋割りも難なく受け入れるだろうと予想していたに違いない。森先生は咳ばらいをしてから、
「うん、川田さん。わかったから、もう泣かなくていい。隣のグループ奥村さんと代えましょう」
 と言った。
 奥村真由美さんは中学校入学のときによそから転入してきたので、朱鞠内の小学校時代から一緒の仲良しグループではなかった。
 小百合さんは奥村さんと入れ替わったことで、朱鞠内小学校から一緒に進学してきた友人たちと一緒の部屋割りとなった。小百合さんはやっと泣き止んで笑顔になった。

 わたしはこのとき、ものすごくショックを受けていた。小百合さんは大人しくてなにも言わない人だけれど、心の中ではわたしをよそ者扱いしていたのだ。
 わたしはまだ同級生の中では孤立していた。ひとりぼっちなのだ。
 友ちゃんもいなくなって、文江さんとは価値観が合わないところがあり、今日はまた小百合さんからよそ者扱いされてしまった。
 ボロボロと大粒の涙を流して泣いていた小百合さんのことを思い出すと、そんなに嫌われていたのかと、悲しくて心に大きなしこりができてしまった気がした。

 その日は学校の帰り道も一人でトボトボと歩いて帰った。
 通学路の楽しい鳥のさえずりも、笹の葉ずれも、今日はなにも耳に入らなかった。
 その夜わたしは、ひと晩じゅう泣いた。
 人の悲しみの彩りには、相手から傷つけられて真っ赤な血が噴き出たような、そんなものもある。十四歳のわたしには忘れられない悲しい思い出だった。

 その小百合さんとわたしは還暦近くなってから偶然再会して、懐かしい思い出話に花を咲かせた。
 あのとき心を傷つけられたわたしは、もうどこにも存在していなかった。
 幾年もの歳月がわたしの心を強くしていたのだ。
 小百合さんは修学旅行の部屋割りの一件はほとんど忘れ去っていて、わたしたちは新たな友情を築くことに、なんのためらいもなかった。