雨竜川第二弾 共栄を去る

 わたしが中学二年の夏休みを終えるころ、農作業で忙しいはずの母が連日どこかに出かけるようになった。どこに行っているのか母は話してくれなかったが、明日から二学期という前の晩の夕食どき、
「みんなに重大発表があります。新しい家がやっと手に入ったよ!」
 と種明かしをしてくれた。
「以前からとうさんと引っ越しの相談をしていてね。どこかいい物件はないかと探していたんだ。そしたら朱鞠内に、いい空き家があるって教えてくれる人がいてね。その持ち主のところに、ぜひ家を譲ってくれるように毎日通って行っていたのさ」
「そしたらとうとう今日、ゆずってあげるといってくれたよ」
 母がこんなに明るくはしゃいでいるのを見るのは初めてだった。
 わたしと同じく何も知らされていなかった兄たちは驚いて母を質問攻めにした。
 新しい家の場所は朱鞠内中学校のすぐ近くで、広さはいまの家の半分くらいだったが、すでに叔父と叔母は同居しておらず、姉たちは奉公に出ており、じっさいに新しい家に住むのは祖母、父母、兄二人とわたしの六人だったし、もう家畜もほとんど飼っていないから、家が狭くなっても問題なかった。
 わが家では、農耕馬のアオが死んでからというもの、少しずつ山羊も綿羊も豚もニワトリも鳩もウサギも処分してしまっていたのだ。

「善は急げだ。持てるだけの荷物を持ってすぐに引っ越すべ」
 父も嬉しそうに言った。
 次の土曜日、午後から朱鞠内の家の掃除に行き、日曜日には荷車二台に寝具と積めるだけの物を積んで、とりあえず引っ越してしまおうという相談がまとまった。
 運ぶのが大変なものは、別の日に、父と兄たちが知り合いから馬車を借りて運んでくれるという。
「こっからそんなに遠いわけでもねえ。何度でも往復するさ」
 父の言葉に母も笑顔でうなずいた。
 共栄と朱鞠内の距離は山道で四キロほど隔たっていた。
 わたし自身、毎日中学校に通っている距離だから、冬場だって子供の足で往復できる距離ではある。遠くないといえば遠くない。おなじ幌加内町内だといえば幌加内町内だ。

 しかしながらこの四キロの距離は、わたしたち共栄生まれの者にとってはとても重要な意味があった。
 遠く岐阜県から祖父母を含めた十二軒の農家が共栄に入植したのは大正年間のことである。
 明治のはじめに開拓使が置かれて北海道の開発が急務となった。大正時代はそれからわずか半世紀あとであったが、肥沃な土地や比較的暖かい土地、資源のある土地などは、すでに内地から来た大企業や大富豪が所有しており、零細な開拓農家が入っていける土地はほとんど残っていなかった。
 たとえゼロからであっても土地がもらえて、開拓を許される土地というのは、
「こんなところに人が住めるの?」
 と言われるような劣悪な条件の場所ばかりであった。

 幌加内町でも事情は同じで、昔から自然資源が豊かであった朱鞠内には新参者が参入する余地はなかった。雨竜川沿いに密林を踏み分け踏み分け登った地域、狩人以外は人間が入ることのない地域、わたしの祖父、上野光五郎はその未開の原生林を、自分たちの墳墓の地と決めたのである。
 入植のとき光五郎はまだ三十前の青年であった。
 彼は家族や仲間と力を合わせて家を作り、道を拓き、畑を耕し、家畜小屋を建て、井戸を掘り、さらにはこの地域では珍しかったデンプン工場を建設して事業を始めた。
鉄道の支線が共栄まで伸びたのも、村に小学校が建ったのも、祖父の尽力が大きかった。
 ところがまだ五十一歳の働き盛りのとき、線路に迷い込んだ小さな女の子を救助しようとして、一緒に轢死してしまったのだ。あとには祖母と八人の子供たちが遺された。
 長男だったわたしの父は学校にも行かず、ゆえに読み書きを知らず、家計を支えるために働き続けたのである。
 共栄の家には、道には、橋には、畑には、わたしの祖父や祖母や一族の血と汗と涙が染みこんでいるのだった。

 引っ越しは新しい生活へのスタートだ。わたしも希望を感じないわけではなかった。
しかし共栄にまつわる思い出が頭をよぎるたび、胸がざわざわして涙があふれるのをとめることができなかった。
「なんでこんなに悲しいんだべ。でもよ、きっとまた帰ってくるべさ」
 心に固くそう誓って、わたしは古里の景色を目に焼き付けようと、何度もまばたきを繰り返した。