雨竜川第二弾 麻雀名人
中学生になってうれしかったことは、小学校にはなかった専用の図書室があって、とても読み切れないほどの沢山の本と出会えたことだ。現実は田舎の村から町の中学校まで、毎日片道一時間かけて通う世界がわたしのすべてだったが、本の中に入ると心は世界じゅうに飛んでいくことができた。
休み時間には図書室に行くのが楽しみだった。特に私が気に入っていたのは赤毛のアンだ。言うまでもなく、カナダの女流作家モンゴメリの書いた優れた児童文学である。
わたしはカナダの美しい自然描写と古里のそれとの、意外なほどの共通点に驚き、
アンと自分を重ね合わせて、すっかり物語の主人公になったような気持になって読んだ。
二年生になって朱鞠内への引っ越しがあり、今まで長い時間がかかっていた通学時間がわずか三分間に短縮されると、朝早くや下校時に、ちょっとしたすき間時間が手に入るようになった。わたしは喜んで図書館通いの回数をさらに増やした。
わたしの読書好きを知った担任の中田あき子先生は、
「これは図書室の本ではなく先生個人の本よ。上野さんに貸してあげるわ。源氏物語と
いうの。いちどは読んでおいて損はない名作よ」
と分厚い百科事典のような本を貸してくれた。
表紙の源氏物語というタイトルの下に、全十巻のうち一と書いてある。
「これ、十巻もあるんですか?」
と私は驚いて中田先生に聞いた。
中田先生はまだ二十代後半の若い先生だ。大学時代は教育学部にいながら、平安鎌倉時代の古典文学研究で有名な教授のゼミ生で、源氏物語は何度も読んだのだそうだ。
「そう。原作は五十四帖あるの。出版社が十巻にまとめたのよ」
わたしは思わず固唾をのんだ。わたしとしては、
「わたしに古典を十巻も読めっていうの?」
という重圧から思わず固唾をのんだのだが、先生は私がうれしくて興奮した証だと受け取った。
貴重な本を借りたわたしは、それまでよりもさらに先生と親しくなって会話も増えた。今考えると中田先生は、共栄出身で朱鞠内に馴染めないわたしに、なにかと声をかけて孤立しないように考えてくださっていたのだと思う。
そのうち何のきっかけだったか、わたしは小学校二年生で麻雀を覚えて、今では家族のだれよりも強いという話をした。すると先生は面白がって、
「こんどぜひ一緒に麻雀を打ちましょう」
と誘ってくれた。
ずいぶん寒くなってからのある日曜日、中田先生がわが家を訪れて、
「えみちゃんをお借りします」
と言ってわたしを連れ出した。行き先は歩いて二分たらずのところにある島先生の家だ。すでに島先生は奥様と雀卓を出して、わたしたちの到着を待っていた。
「いらっしゃい。さっそく麻雀名人にお手合わせ願おうか」
そこでわたしはペコリとお辞儀して、大人三人の間に入って牌を並べた。
「おっ、これは手つきがいいぞ。本当に強敵かもしれない」
島先生が上機嫌でそういった。島先生は当時四十歳くらい、奥様は少し年下で、
お子さんはいなかった。
わたしが小学校二年生のある日、長兄の秀ちゃんが、どこからか麻雀牌をもらってきた。わたしたちは初めて見る麻雀牌が珍しくて、大いにはしゃいだ。
さっそく秀ちゃんは、本を見ながら対戦の仕方を教えてくれた。
秀ちゃんは勉強でも遊びでも教え上手だ。ただ彼の教え方はいつも一対一だった。
手早くまつ子姉、たけ子姉、そして次兄の完ちゃんの順に教えると、気の早い完ちゃんは、すぐにゲームを開始したがった。
「そうだな。みんなで実際にやりながらルールや役を覚えていくべ」
秀ちゃんたち四人で麻雀をやり始めると、みんな大いに盛り上がった。
麻雀自体には興味を示さず、子供たちの様子だけちょくちょく見に来ていた母が、
だれにも相手にされずに、ただぽつんと指をくわえて兄や姉のする麻雀をながめて
いるわたしを発見した。母はひどく怒って、
「こら、秀一。なんで一番ちいさいえみこに、ちゃんと麻雀を教えてあげないのさ」
と、長兄をなじった。
「そうだよ。わたしは私はちっちゃいんだから、ちゃんと教えてくれなきゃできないよ」
とわたしは口をとがらせたが、そのタイミングで涙がどっとこぼれ落ちた。
心の中でずっと寂しさにたえていたのだ。
秀ちゃんは慌ててわたしにも教えてくれて、交代で麻雀に加えてくれたが、教わるのが遅かった分、わたしはなかなか要領がつかめずに、ほかのきょうだいから散々やられてばかりだった。
翌日からわたしは、秀ちゃんがいないすきに麻雀の本を持ち出してはこっそり開いて、むしゃぶりつくように読んだ。勉強はそっちのけで、麻雀のルール、パイの呼び方、役の作りかたを一生懸命おぼえたのだ。
そのかいがあって、すぐにきょうだいの仲間入りができるようになった。
きょうだいの中で一番強いのはわたしだった。
何しろ末っ子だから学校から一番早く帰って来られる。学校から帰ったらまず麻雀の本を読んで猛勉強だ。新聞に出ている麻雀の記事なども、関心を持って読むようになった。そのためいつの間にか打ち方のコツを覚え、ゲームの流れが作れるようになっていた。
それに反していつもハコ天(最下位)になってしまうのは完ちゃんだ。
完ちゃんはいつも高い役ばかりを狙って打つ。ゲームの流れを無視して、役作りばかり追い求めるので、自分から当たり牌を振り込んでしまうのだ。
そのつど大げさに悔しがるので、わたしはいつも爆笑していた。
いちど父が面白半分に仲間入りしてきたことがある。
「俺はプロだから、子供麻雀では役不足だけどな」
と最初は威勢が良かったが、わたしに次々と点棒をはぎ取られて、完ちゃん以上に大負けしてしまった。父は二度とわたしと麻雀をしようとしなかった。
中学生になってからは、家庭ではほとんど麻雀をする機会はなかったが、打ち方は指が覚えていた。わたしはすぐにみんなの癖を飲み込んだ。
この中では島先生が一番強いが、特徴のある打ち方をしていた。
中田先生は手筋をよく知っていて、わたし同様、本で学んだ感じがした。
島先生の奥様が一番弱くて、ご自分でも麻雀はお付き合いだと、割り切って打っている感じだった。
わたしは島先生を狙い撃ちにした。そしてわざと奥様に勝ちを譲った。
何度か繰り返してやったが、ずっとトップが奥様で、ビリが島先生という順位になった。外はいつの間にか真っ暗になっていた。
マージャンがおわると、奥さまの手料理がテーブルいっぱいにならんだ。
「うちの奥さんは器量は悪いけど、料理は飛びぬけておいしいんだよ」
と、島先生がくだらない冗談をいった。
しかし確かにとても美味しいお料理だった。
そもそも我が家では絶対こんなごちそうは食べられないというメニューばかりだった。
麻雀を打っていてわかったが、島先生はすごく執念ぶかく勝負にこだわる性格だった。そのため、
「ちょっと今日は調子が悪かったけれど、上野さん、次の日曜日にもまた来てくれないか」
と先生のほうから誘って来た。奥様も、
「ごめんなさい、良かったら主人に付き合ってあげてください」
という。教師が中学生を麻雀に誘うなど、いまの時代では考えられないことだ。でも奥様の手料理に魅了されていたわたしは、いいですよ、と首を縦に振ったのだった。
驚くべきことに、この日曜の午後の麻雀会は島先生が翌年三月に転勤するまで、ほぼ毎週、半年近くも続いたのだった。お金をかけていたわけではなかったから、勝負の結果は覚えていない。でも毎週麻雀のあとにいただいた奥様の手料理と、至福の時間のことはいまでもはっきりと思えている。
ちなみに中田先生に貸していただいた源氏物語は、読んでみるとベタベタの恋愛小説だった。やはりわたしには早すぎて、半年経っても十ページも読めずに挫折してしまい、わが家の本棚で埃をかぶる羽目になったのであった。