雨竜川第二弾 わたしはわたし

 わたしを身ごもった時、母はとても痩せている上に心臓が悪く、出産は母体が危ないのであきらめた方が良いと医者に言われた。
 父と祖母は主に経済的な理由から母に堕胎を勧めた。
 将来わたしを育てるお金の心配どころか、出産の前後に母に農作業を休まれることすら痛手になってしまうほど、貧しいわが家であった。

 しかし母は、すでに四人の子供にめぐまれていたのに、どうしてもわたしを産みたいと言い張って、ぜったいに諦めなかった。
 父も祖母も医師も、母の熱意に根負けするような形でわたしの出産を認めたのだった。
 こうしてわたしは上野家の末っ子として無事誕生した。

 いざ産まれると父は上機嫌で、
「さあ、名前をつけねばな……」
 と言った。
 初代の開拓者として上野家を興したのは祖父である。
 祖父の名前は光五郎という。
 祖父は自分の息子を照治と名前づけた。わたしの父だ。
「この子は俺の名前から一文字取って、照子という名はどうだべ。祖父さんは光る、俺は照らす、この子も照らす。
人のために周囲を明るくする。大事な意味のある名前だべ」
 父は自分で言って自分で納得し、そのように決めようとした。
 そのとき母から「待った!」がかかった。

 そもそもわたしを生むことは、父をはじめとする皆が反対した。
 それを忘れたかのように、わたしの小さな顔に頬ずりしている父に対して、母は猛然と腹を立てていた。今までだって姉たちをふみ子、まつ子と、実に古風な名前にしたことに対して、ずっと内心怒っていたのだ。
 今度は自分に名前を付けさせてもらう、母は強い調子で言った。
「照子はあんまりにも古風な名前です。これからの時代を生きていくのに可哀そうです。わたしは恵美子という名前を考えていました」
 このころ、岸恵子という女優さんが大人気で、恵子と名付けられる女の子が多かった。母はただ恵子だけではなく、さらに美しいという字を間に入れたのだ。
 わたしは美人という点では今も昔も完全に名前負けしているが、母の言う通り
いままで激動の時代を生きてきて、ずっと自分の名前が好きでいられた。

 大人になってからは、えみりんというあだ名で呼ばれることも多かったが、それも嫌ではなかった。
 もしも父に照子にされていたら、あだ名はてるりんになり、てるてる坊主の妹分みたいだったろう。
「私が、あんたの名前をつけてあげたんだよ」
 と母はいつも自慢していた。
 わたしは自分の名前が好きだったが、もしも違う名前だったら、違う人生を歩んでいたのだろうかと時々思うことがある。

 不思議なことだが、私には生まれたときの記憶がある。
 わたしが生まれたのは、共栄の自宅の仏間兼客間に使っていた奥の部屋である。
 祖母と産婆さんが心配そうに母の手を握っていた。
 雪がしんしんと降っていてとても寒い日だった。
 他の家族はとなりの居間に集まって、緊張しながらわたしが生まれる瞬間を待っていた。

 土間の向こうにいたアオが、ぶるるん!といなないた時、わたしは母の胎内から飛び出したのだ。
 この記憶がたしかに事実である証拠に、今まで一度も色あせたことも忘れたこともない。
 母の寝ていた布団の色まで覚えている。
 子どもの時から何度も母には、この記憶のことを話してきた。
 しかし肝心の母から返ってくる言葉は、いつも剣もほろろに、
「変なことを言う子だね……」
 馬鹿馬鹿しくて相手になっていられないという感じだった、
 その後わたしは古里である共栄から幌加内、札幌、東京と住む場所を変え、古里は遠くにありて思うもの、になってしまったが、やっぱり共栄の上野家を自分で選んで、
生まれてきたのだろうと思っている。

 母は医師から心配されたとおり、わたしを産んでからは産後の肥立ちが悪く、三年もの間、入退院を繰り返した。
 わたし自身も未熟児で栄養が行き届かず、身体が弱かった。
 原因不明の皮膚病で、身体じゅうが腫れあがってしまったことも、すでに書いた通りだ。
 しかしそうしたことも、成長後は親子の絆を深める結果になり、今となっては亡き母との大切な思い出になっている。