雨竜川第二弾 完二兄ちゃん

 朱鞠内中学校に入学して最初の夏が来た。
 カンカン照りの日が続き、わたしは急速に体力をけずられていった。
 そもそも共栄からの長距離通学、ほとんど友だちのいないクラス、急に難しくなった勉強など、ストレスの種は尽きなかった。
 そこへ数十年ぶりだという猛暑が来て、わたしはすっかり体調を崩した。
 その日は朝から胸やけがして身体が重かった。
 ちょっと今日は無理かな……と思う自分をだましてどうにか登校したが、二時間目には冷や汗が出て、息が苦しくなってきた。
 英語の林先生の良く通る大きな声も聞こえなくなって、とうとう我慢できなくなり、わたしは先生に、
「すみません、具合がわる……」
 と言い終わらないうちに、バタリとその場に倒れてしまった。
 そのまま意識が薄れていく。誰かが大声で叫んでいた。
 気がつくとわたしは、林先生にお姫様だっこをされて移動していた。
「おい、だれか三年の教室に行って、完二を呼んできてくれ」
 林先生は校舎の階段を下りながら、心配そうな顔でついてきてくれているクラスメイトたちに向かってそう命じていた。

 知らないうちにこんな大ごとになっていて、わたしは驚いた。
 先生の腕の中で、
「きゃー、恥ずかしい、先生、下してぇ」
 と身もだえしたが、声が出ない。
 吐き気がまったく治まらず、身体じゅうから力が抜けていく。
 わたしは林先生に抱っこされたまま一階の保健室に連れて行かれた。
 すぐに担任の中田あき子先生が駆けつけてきてくれた。林先生は、
「いま完二兄ちゃんが来てくれるから、ここで休んでいなさい」
 と言い残して教室に帰って行った。
 二歳違いの完ちゃんとは、小さいころはいつも一緒に遊んでいた。わたしのほうから、まるで紐でつながっているかのように、完ちゃんにくっついて回っていたのだ。
ところが小学校も高学年になると少しずつ距離ができてきた。
 中学生になってからは、お互いになんとなく気恥ずかしくなって、ほとんど一緒に過ごすことはなくなっていた。
 だから完ちゃんを呼んでもらっても、どんな顔をして出迎えれば良いのか、わたしはちょっと戸惑った。
 林先生と入れ替わりに、完ちゃんが保健室にやってきた。
「えみこ、大丈夫か。どうした?」
 完ちゃんは青い顔をして、心配そうな声を出して聞いてくれた。
 横から中田先生が、
「えみこさんは朝から具合が悪かったの?」
 と完ちゃんに訊ねた。完ちゃんは、
「ぜんぜん知らなかったです。いつもと同じだと思いました」
 と返事をしていた。私はか細い声で、
「言わなかったけど、じつは朝から気分が悪かったんだ。きっと暑さのせいだと思う……」
 とようやく訴えた。
 自分でもときどき自分がいやになるほど、当時の私は体力がなかった。
 赤ん坊のころから虚弱体質で、風邪はしじゅう引いていたし、小学校の朝礼でも倒れたときが三回もあった。
 このときも保健室で寝ている自分が抜け殻のようで感覚がほとんどなかった。
 中田先生は、
「どうやら大きな病気ではないみたいね。お昼まで保健室で寝て、お昼過ぎに早退するといいわ。完二君、一緒に早退していいから、えみこさんを連れて帰ってあげてね」
 と言った。そしてさらに、
「えみこさん、朝から具合が悪いときは無理して学校に来なくてもいいのよ」
 と優しく言ってくれた。
 中田先生と完ちゃんは二人とも出て行った。わたしはそのまま眠ってしまった。
 三時間目が終わって休み時間になったとき、完ちゃんがまた様子を見に来てくれた。
「えみこ、大丈夫か。昼休みには歩いて帰れそうか?」
 と聞いてくれたが、わたしには自信がなかった。
「どうしよう、昼にはまだ歩けそうにない……」
 そう言うと完ちゃんは、
「じゃあ、放課後までここで寝かせてもらって、授業が終わってから一緒に帰ろう」
 と決めてくれた。今日の完ちゃんはなんて優しいんだろう。
 そう思うと私は涙がにじんできた。
 しかし、わが家までの長い道のりを考えるとわたしは不安をおぼえた。
 わが家までは急な坂を延々と上り、薄暗いトンネルも通らなければならない。
 自転車で来ているけれども、自転車に乗れるかどうかわからない。
 どうすればいいだろう。自転車を中学校に置いて歩いて帰るのは大変だ。
 考えが堂々巡りに陥って困ってしまったとき、寝心地の良い布団がわたしを眠りに誘ってくれた。保健室の布団はふかふかで、わが家でわたしたちが寝ている布団よりずっと上等だった。
「えみこ、帰るぞ」
 完ちゃんの声で目が覚めた。
 陽光はすでに柔らかく斜めに差し込んでいて、すでに夕方になったことがわかった。
 わたしのカバンは、誰かがベッドのわきに持って来てくれていた。
「完ちゃん、わたし自転車に乗れそうにない」
 弱々しくそう言うと、
「俺が二台とも押していくよ」
 ときっばり断言してくれた。
 しかし小柄な完ちゃんが、大人用の自転車二台を一人で押して歩けるだろうか。
「わたしの自転車は置いて行こうよ」
 と言ったが、完ちゃんは大丈夫だと言って聞かない。
「お世話になりました。帰ります」
 職員室に挨拶に行くと、林先生がやっぱり、
「自転車はどうするんだ?」
 と聞いてきた。
「自転車がないと明日困るので、ぼくが二台とも押して帰ります」
 と完ちゃんが答えたので、
「それは大変だろう。置いて帰ったらどうだ」
 と林先生は心配顔でそう言った。
 完ちゃんは大丈夫ですと強い調子で答えて職員室を出た。
 朱鞠内中学校を出ると、長いなだらかな下り坂がある。
 下り坂を自転車二台押して歩くのは無理だと思った完ちゃんは、自分なりの知恵を絞った。先に自分の自転車に乗って坂道を下り、そこに自転車をとめて、歩いて戻ってきて今度はわたしの自転車に乗って坂を下った。
 そこで二台の自転車を並べた完ちゃんは、右手に彼の自転車、左手にわたしの自転車のハンドルをしっかり握って、そろりそろりと山道を上り始めた。
 共栄のわが家でまで、延々4キロの距離がある。
 完ちゃんはフラフラしながら自転車を押しはじめた。
 バランスがうまく取れなくてハンドルが大きく動いてしまい、何度もガシャッと自転車を倒してしまった。
「完ちゃん、やっぱり無理だよ。置いて帰ろう」
 そう言うわたしに完ちゃんは意地になって首をふった。
「いや、絶対持って帰る!」
 ずっと後年東京で、わたしは放置自転車を左右に二台並べて移動させている係員さんを見たことがある。その人はハンドルの軸になっているところをがっしり持って、ふらつかないように器用に運んでいた。でもその人は完ちゃんよりもずっと大柄の男の人だった。
 完ちゃんのようにハンドルのグリップ部分を持っていたら、自転車はふらつくに決まっている。ハンドルの軸を持たなければいけない。
 でもその時のわたしには、そんなコツはわからなかったし、第一まだずっと気持ちが悪いままで、立っているのもやっとだった。
 道は国道だが、車はめったに来ない。二人は道の真ん中をそろりそろりと家路についた。完ちゃんの額には汗が玉のように浮かんできた。夕方といっても、まだジリジリと暑い。日陰がないので湿気が少なくても汗がふき出る。
 それでも完ちゃんは諦めることなく、一歩一歩前進した。
 少しずつ自転車を操るのもうまくなって、あまり倒さなくなってきた。
 それでも道はまだ半ばである。
 汗が完ちゃんの全身からボタボタ落ちはじめ、ふんばっている顔はまっかになり、
「よいしょ!よいしょ!」
 と大きなかけ声をかけないと歩けなくなっててる。
 わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、
「完ちゃん、ごめんね。ごめんね」
 とグスングスンと嗚咽しながら後ろを歩いた。
 ようやくトンネルの入り口が見えてきた。ここまで来れば道のりの三分の二は過ぎたことになる。わたしは薄暗いトンネルが怖くて嫌いだった。
 自分の自転車の完ちゃんが握っているのと反対側の、空いているグリップをしっかり握った。完ちゃんとつながっている気がしてようやく怖さが薄らいだ。
 トンネルを出たところで、完ちゃんの体力は限界に近づいていた。
 ここで二台の自転車を止め、はじめに自分の自転車に乗って、かなり先まで進んだ。
 そこから徒歩で戻ってきて、こんどはわたしの自転車に乗って、自分の自転車が置いてあるところまで進んだ。通学路の中で一番急で長い坂を、そのやり方でしのぎ切り、あとは国道を外れて川沿いの細い土手を歩けば良いだけになった。
 陽はすっかり傾いて涼しい風が吹いてきた。風の中に蕎麦の花の匂いが交じる。
 歩きやすくはなったけれど、完ちゃんの足もとはすでにフラフラだった。
 制服は汗でぐっしょり濡れている。
 ハアハアと息遣いを荒くしながら、二台の大きな自転車との格闘は続いていた。
 ようやくわが家が見えてきた。いったい何時間かかってたどり着いたのだろう。
完ちゃんはヘトヘトになりながら、玄関の戸を開けたけれど、家族は畑に行ってるらしく誰もいなかった。
 二人で一目散に台所へ駆けて行き、冷たい水を一気飲みした。
 飲んでも飲んでも口のかわきがとれない気がした。
 それにしても、二人とも熱中症にならなくて本当に良かった。
 まだ汗でぐちょぐちょなのに、完ちゃんは私の布団を出してしいてくれた。
「えみこ、ゆっくり寝ろ」
 完ちゃんがわたしの部屋から出ていくとき、彼の優しさが心にビンビンひびいた。
わたしは、
「ありがとう」
 とひとこと言ったあとは、涙ぐんだ顔を見せないように壁のほうに寝返りを打った。
 わたしも疲れきっていて、晩御飯も食べずに泥のように眠りについた。

 翌朝、母がわたしを起こしに来て、
「昨日、どうしたの? 何があったのさ。完二も恵美子も早くから寝てしまっていて、
いくら起こしても起きなかったんだよ」
 と言った。完ちゃんもわたしに続いて寝入ってしまったらしい。
 わたしは母に昨日の出来事を細かく話した。母は聞いて驚いていたが、
「それでえみこ、今朝の具合はどうなんだい」
 と聞いてくれた。わたしは昨日の朝、無理を押して登校したために、完ちゃんにとんでもない迷惑をかけたことを後悔していた。そのため今までは中学校を欠席しようなんて思ったこともなかったが、
「今朝もまだ具合が悪いから学校休むよ」
 と素直に母に言うことができた。
 直後、完ちゃんが様子を見に来てくれた。
「話は聞いたよ。えみこは今日も具合が悪いから休むってさ」
 母にそう言われた完ちゃんは、明らかにほっとした表情を浮かべて、わたしに向かってうなずいた。
完ちゃんが登校してから、わたしは母に昨日のことをもっとくわしく話した。
 身ぶり手ぶりをくわえながら、完ちゃんが何度も自転車を倒しながらも、どれほど頑張ってくれたのか、一生懸命に母に伝えた。
話しているうちに涙で顔がぐしゃぐしゃになった。
「完ちゃんは、偉かったね。なかなかやるじゃないか」
 母は誇らしそうにそう言った。
「うん、すごく優しかったよ」
 わたしは言って、完二兄ちゃん、ありがとう、と心の中でつぶやいた。
 母はしかし、すぐに顔をしかめて、
「こんなことになるのも、わが家がこんなへんぴな場所にあるからだね。何とかせねば……」
 と独り言のようにつぶやいたのだった。