雨竜川第二弾 あすなろの木

 卒業式の日は冷たい雨だった。
 卒業生のわたしたちは卒業証書と通知表のほかに、たくさんの工作や図画、習字などを持ち帰らなければならない。ひとりだと持つのが大変だ。
 わたしは母が来てくれているのを確認してほっとした。
 教室の後ろに並んだ母が、
「それでも今日は、雪が降らないで良かったね」
 と隣にいる友子ちゃんのお母さんと話していた。
 入学時には七人いた同級生が、いまは四人になっていた。
 過疎化が進んでみんな共栄から去ってしまったのだ。男の子二人と女の子二人だけの卒業式である。六年間通った共栄小学校の思い出が、走馬灯のように思い出されて胸がいっぱいになった。学んだこと、楽しかったこと、つらかったこと、わたしは何一つ忘れまいと固く決心した。
 卒業証書を渡されたあと、校長先生のあいさつになった。
 校長先生は簡単に井上靖の「あすなろ物語」を紹介してから言った。
「この共栄から朱鞠内に入るところにヒノキアスナロの大木があります。ちょうど分かれ道に立っているから目印の木になっていますね」
「これから皆さんは朱鞠内中学校の生徒になるので、朝夕、この木を見ながら通学すると思います」
井上靖は『あすはヒノキになろう、なろうとするあすなろたち』と書きました。本当は違うんです。ヒノキアスナロはヒバとも言って、そのままですでに立派にひと様のお役に立てる素晴らしい木なんです」
「だから皆さんもどこで生活することになっても、自分はもともと立派なヒバの木なんだ。自分らしく頑張ればいいんだ、そういう風に思ってください」
 先生は、皆さんのことをずっと見守っています、という最後の声は涙でかすれてしまった。
 わたしは校長先生の涙に驚いた。
「おやおや、なんで校長先生が泣くのかい、泣くのはわたしたちのほうじゃないのかい」
 と思った。あすなろの話の意味も、じつはまだよくわからなかった。
 わたしの記憶がはっきりしているのは、校長先生の話に感動した母が、後日なんどか繰り返して、この卒業式のときのことを話してくれたからである。
「校長先生は共栄小学校が、いずれ廃校になることがわかってたのさ」
 と母は言っていた。
 しかし校長先生の話よりも、わたしはこれから通う朱鞠内中学校のことで頭がいっぱいだった。
 どんなところだろうかと、不安でいっぱいだった。
 卒業式が終わって、帰り支度をしながら友ちゃんに、
「いよいよ中学入学だね。なんだか怖いね」
 と話しかけた。友ちゃんも、
「そうだね。えみちゃんは何着て行くの? わたしは紺色のセーラー服と黒いズボンしかないんだ」
 と言う。わたしは、
「上下ともお下がりだよ。まつ子姉さんがむかし着ていたやつ」
 と答えながら、朱鞠内小学校から進学してくる子たちは、ピカピカの新しい制服を買ってもらうのではないかと考えていた。
 帰宅してから母に、
「中学の入学式には来てくれるんでしょ?」
 と確認した。来てくれるという返事に、
「何を着て行くの?」
 と重ねて聞いた。母は、
「これ。これしかねえべ」
 と言って、自分が来ている和服の襟を軽く叩いて言った。
 母は今日の卒業式に、自分がお嫁入したとき持ってきた和服を着ていた。
 よそいきの時に母が着る服は、確かにこれしかないのである。
 それでもわたしはこの着物を着ている母のことをとても美しいと思っていたので、その返事には満足だった。

 共栄から朱鞠内の間は山道で四キロある。
 夏は自転車で行けるが、雪が降れば歩くしかない。
 途中木が生い茂っていたり、道が消えかかっていたりで物騒だ。
 女の子は一人歩きしないよう、大人たちから厳しく言われていた。
 言われなくてもこんな寂しくて長い道のりを一人で歩く勇気はない。
 一緒に通う友ちゃんがいてくれて、本当に助かったと思っていた。

 いよいよ入学式当日。古里は春いまだ遠く、川と道路以外には雪がたっぷり残っていた。道路の雪は解けかかって、ドロドロでぐちゃぐちゃになっている。
 わたしは母と友ちゃん母娘と四人で歩いた。
 ランドセルから中学カバンに替わり、私服からセーラー服に服装も変わった。
ちょっと大人になった気がする。歩きにくかったけれど、浮き立つ気持ちもあり、できるだけ友ちゃんと並んで歩きたかった。
 下り坂ではあったが、たっぷり歩いてやっと朱鞠内中学校が見えるところまで来た。
 小高い丘の上、横に長い立派な二階建ての校舎である。

「友ちゃん、なんだか怖いね」
「でもえみちゃん、今日は母さんたちが一緒だから大丈夫だよ」
 ヒソヒソ話をしながら中に入った。
 共栄小学校に比べると、朱鞠内中学校はどこもここも広い。
 理科室や保健室や図書室など、小学校にはなかった場所が多くてビックリした。
 トイレの個室もたくさん並んでいる。
 わたしたちは親とはなれて、いったん二階の教室に入り席についた。
 荷物をおいて、入学式が行われる体育館に移動するように先生から言われて、
知らない同級生に囲まれて、私と友ちゃんは、手をつなぎながらそろそろと歩いた。

 体育館もとても広い。さきに入っていた保護者たちは、横の壁際に並んで私たちを見ていた。在校生のお姉さん、お兄さんたちも並んで待っていた。
「あっ!完ちゃんだ」
 三年生の兄を見つけて、心の中でニンマリしたが、兄と目を交わす余裕はなかった。

 十七人の新入生が次々に名前を呼ばれて起立した。校長先生の訓示を聞き、入学式はそれで終わった。次に保護者と一緒に二階の教室に入った。
 わたしたち新入生の担任は中田あき子先生で、二十代後半の眼鏡美人であった。

 中田先生からいろいろな注意事項を聞いたあとで、生徒一人一人の自己紹介があった。わたしはドキドキして心臓が口から出そうだった。何をしゃべったか全く覚えていない。
 それが終わって終業解散を告げられると、今日一日が無事に終わって良かったと心から安心した。
 中学校まで歩いての往復したこともあり、終日緊張していたこともあり、帰宅すると疲れがドッと出た。晩御飯もそこそこに、明日からの中学生活、がんばろうと思いながら、わたしは深い眠りに落ちた。