雨竜川第二弾 完二兄ちゃん

 朱鞠内中学校に入学して最初の夏が来た。
 カンカン照りの日が続き、わたしは急速に体力をけずられていった。
 そもそも共栄からの長距離通学、ほとんど友だちのいないクラス、急に難しくなった勉強など、ストレスの種は尽きなかった。
 そこへ数十年ぶりだという猛暑が来て、わたしはすっかり体調を崩した。
 その日は朝から胸やけがして身体が重かった。
 ちょっと今日は無理かな……と思う自分をだましてどうにか登校したが、二時間目には冷や汗が出て、息が苦しくなってきた。
 英語の林先生の良く通る大きな声も聞こえなくなって、とうとう我慢できなくなり、わたしは先生に、
「すみません、具合がわる……」
 と言い終わらないうちに、バタリとその場に倒れてしまった。
 そのまま意識が薄れていく。誰かが大声で叫んでいた。
 気がつくとわたしは、林先生にお姫様だっこをされて移動していた。
「おい、だれか三年の教室に行って、完二を呼んできてくれ」
 林先生は校舎の階段を下りながら、心配そうな顔でついてきてくれているクラスメイトたちに向かってそう命じていた。

 知らないうちにこんな大ごとになっていて、わたしは驚いた。
 先生の腕の中で、
「きゃー、恥ずかしい、先生、下してぇ」
 と身もだえしたが、声が出ない。
 吐き気がまったく治まらず、身体じゅうから力が抜けていく。
 わたしは林先生に抱っこされたまま一階の保健室に連れて行かれた。
 すぐに担任の中田あき子先生が駆けつけてきてくれた。林先生は、
「いま完二兄ちゃんが来てくれるから、ここで休んでいなさい」
 と言い残して教室に帰って行った。
 二歳違いの完ちゃんとは、小さいころはいつも一緒に遊んでいた。わたしのほうから、まるで紐でつながっているかのように、完ちゃんにくっついて回っていたのだ。
ところが小学校も高学年になると少しずつ距離ができてきた。
 中学生になってからは、お互いになんとなく気恥ずかしくなって、ほとんど一緒に過ごすことはなくなっていた。
 だから完ちゃんを呼んでもらっても、どんな顔をして出迎えれば良いのか、わたしはちょっと戸惑った。
 林先生と入れ替わりに、完ちゃんが保健室にやってきた。
「えみこ、大丈夫か。どうした?」
 完ちゃんは青い顔をして、心配そうな声を出して聞いてくれた。
 横から中田先生が、
「えみこさんは朝から具合が悪かったの?」
 と完ちゃんに訊ねた。完ちゃんは、
「ぜんぜん知らなかったです。いつもと同じだと思いました」
 と返事をしていた。私はか細い声で、
「言わなかったけど、じつは朝から気分が悪かったんだ。きっと暑さのせいだと思う……」
 とようやく訴えた。
 自分でもときどき自分がいやになるほど、当時の私は体力がなかった。
 赤ん坊のころから虚弱体質で、風邪はしじゅう引いていたし、小学校の朝礼でも倒れたときが三回もあった。
 このときも保健室で寝ている自分が抜け殻のようで感覚がほとんどなかった。
 中田先生は、
「どうやら大きな病気ではないみたいね。お昼まで保健室で寝て、お昼過ぎに早退するといいわ。完二君、一緒に早退していいから、えみこさんを連れて帰ってあげてね」
 と言った。そしてさらに、
「えみこさん、朝から具合が悪いときは無理して学校に来なくてもいいのよ」
 と優しく言ってくれた。
 中田先生と完ちゃんは二人とも出て行った。わたしはそのまま眠ってしまった。
 三時間目が終わって休み時間になったとき、完ちゃんがまた様子を見に来てくれた。
「えみこ、大丈夫か。昼休みには歩いて帰れそうか?」
 と聞いてくれたが、わたしには自信がなかった。
「どうしよう、昼にはまだ歩けそうにない……」
 そう言うと完ちゃんは、
「じゃあ、放課後までここで寝かせてもらって、授業が終わってから一緒に帰ろう」
 と決めてくれた。今日の完ちゃんはなんて優しいんだろう。
 そう思うと私は涙がにじんできた。
 しかし、わが家までの長い道のりを考えるとわたしは不安をおぼえた。
 わが家までは急な坂を延々と上り、薄暗いトンネルも通らなければならない。
 自転車で来ているけれども、自転車に乗れるかどうかわからない。
 どうすればいいだろう。自転車を中学校に置いて歩いて帰るのは大変だ。
 考えが堂々巡りに陥って困ってしまったとき、寝心地の良い布団がわたしを眠りに誘ってくれた。保健室の布団はふかふかで、わが家でわたしたちが寝ている布団よりずっと上等だった。
「えみこ、帰るぞ」
 完ちゃんの声で目が覚めた。
 陽光はすでに柔らかく斜めに差し込んでいて、すでに夕方になったことがわかった。
 わたしのカバンは、誰かがベッドのわきに持って来てくれていた。
「完ちゃん、わたし自転車に乗れそうにない」
 弱々しくそう言うと、
「俺が二台とも押していくよ」
 ときっばり断言してくれた。
 しかし小柄な完ちゃんが、大人用の自転車二台を一人で押して歩けるだろうか。
「わたしの自転車は置いて行こうよ」
 と言ったが、完ちゃんは大丈夫だと言って聞かない。
「お世話になりました。帰ります」
 職員室に挨拶に行くと、林先生がやっぱり、
「自転車はどうするんだ?」
 と聞いてきた。
「自転車がないと明日困るので、ぼくが二台とも押して帰ります」
 と完ちゃんが答えたので、
「それは大変だろう。置いて帰ったらどうだ」
 と林先生は心配顔でそう言った。
 完ちゃんは大丈夫ですと強い調子で答えて職員室を出た。
 朱鞠内中学校を出ると、長いなだらかな下り坂がある。
 下り坂を自転車二台押して歩くのは無理だと思った完ちゃんは、自分なりの知恵を絞った。先に自分の自転車に乗って坂道を下り、そこに自転車をとめて、歩いて戻ってきて今度はわたしの自転車に乗って坂を下った。
 そこで二台の自転車を並べた完ちゃんは、右手に彼の自転車、左手にわたしの自転車のハンドルをしっかり握って、そろりそろりと山道を上り始めた。
 共栄のわが家でまで、延々4キロの距離がある。
 完ちゃんはフラフラしながら自転車を押しはじめた。
 バランスがうまく取れなくてハンドルが大きく動いてしまい、何度もガシャッと自転車を倒してしまった。
「完ちゃん、やっぱり無理だよ。置いて帰ろう」
 そう言うわたしに完ちゃんは意地になって首をふった。
「いや、絶対持って帰る!」
 ずっと後年東京で、わたしは放置自転車を左右に二台並べて移動させている係員さんを見たことがある。その人はハンドルの軸になっているところをがっしり持って、ふらつかないように器用に運んでいた。でもその人は完ちゃんよりもずっと大柄の男の人だった。
 完ちゃんのようにハンドルのグリップ部分を持っていたら、自転車はふらつくに決まっている。ハンドルの軸を持たなければいけない。
 でもその時のわたしには、そんなコツはわからなかったし、第一まだずっと気持ちが悪いままで、立っているのもやっとだった。
 道は国道だが、車はめったに来ない。二人は道の真ん中をそろりそろりと家路についた。完ちゃんの額には汗が玉のように浮かんできた。夕方といっても、まだジリジリと暑い。日陰がないので湿気が少なくても汗がふき出る。
 それでも完ちゃんは諦めることなく、一歩一歩前進した。
 少しずつ自転車を操るのもうまくなって、あまり倒さなくなってきた。
 それでも道はまだ半ばである。
 汗が完ちゃんの全身からボタボタ落ちはじめ、ふんばっている顔はまっかになり、
「よいしょ!よいしょ!」
 と大きなかけ声をかけないと歩けなくなっててる。
 わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、
「完ちゃん、ごめんね。ごめんね」
 とグスングスンと嗚咽しながら後ろを歩いた。
 ようやくトンネルの入り口が見えてきた。ここまで来れば道のりの三分の二は過ぎたことになる。わたしは薄暗いトンネルが怖くて嫌いだった。
 自分の自転車の完ちゃんが握っているのと反対側の、空いているグリップをしっかり握った。完ちゃんとつながっている気がしてようやく怖さが薄らいだ。
 トンネルを出たところで、完ちゃんの体力は限界に近づいていた。
 ここで二台の自転車を止め、はじめに自分の自転車に乗って、かなり先まで進んだ。
 そこから徒歩で戻ってきて、こんどはわたしの自転車に乗って、自分の自転車が置いてあるところまで進んだ。通学路の中で一番急で長い坂を、そのやり方でしのぎ切り、あとは国道を外れて川沿いの細い土手を歩けば良いだけになった。
 陽はすっかり傾いて涼しい風が吹いてきた。風の中に蕎麦の花の匂いが交じる。
 歩きやすくはなったけれど、完ちゃんの足もとはすでにフラフラだった。
 制服は汗でぐっしょり濡れている。
 ハアハアと息遣いを荒くしながら、二台の大きな自転車との格闘は続いていた。
 ようやくわが家が見えてきた。いったい何時間かかってたどり着いたのだろう。
完ちゃんはヘトヘトになりながら、玄関の戸を開けたけれど、家族は畑に行ってるらしく誰もいなかった。
 二人で一目散に台所へ駆けて行き、冷たい水を一気飲みした。
 飲んでも飲んでも口のかわきがとれない気がした。
 それにしても、二人とも熱中症にならなくて本当に良かった。
 まだ汗でぐちょぐちょなのに、完ちゃんは私の布団を出してしいてくれた。
「えみこ、ゆっくり寝ろ」
 完ちゃんがわたしの部屋から出ていくとき、彼の優しさが心にビンビンひびいた。
わたしは、
「ありがとう」
 とひとこと言ったあとは、涙ぐんだ顔を見せないように壁のほうに寝返りを打った。
 わたしも疲れきっていて、晩御飯も食べずに泥のように眠りについた。

 翌朝、母がわたしを起こしに来て、
「昨日、どうしたの? 何があったのさ。完二も恵美子も早くから寝てしまっていて、
いくら起こしても起きなかったんだよ」
 と言った。完ちゃんもわたしに続いて寝入ってしまったらしい。
 わたしは母に昨日の出来事を細かく話した。母は聞いて驚いていたが、
「それでえみこ、今朝の具合はどうなんだい」
 と聞いてくれた。わたしは昨日の朝、無理を押して登校したために、完ちゃんにとんでもない迷惑をかけたことを後悔していた。そのため今までは中学校を欠席しようなんて思ったこともなかったが、
「今朝もまだ具合が悪いから学校休むよ」
 と素直に母に言うことができた。
 直後、完ちゃんが様子を見に来てくれた。
「話は聞いたよ。えみこは今日も具合が悪いから休むってさ」
 母にそう言われた完ちゃんは、明らかにほっとした表情を浮かべて、わたしに向かってうなずいた。
完ちゃんが登校してから、わたしは母に昨日のことをもっとくわしく話した。
 身ぶり手ぶりをくわえながら、完ちゃんが何度も自転車を倒しながらも、どれほど頑張ってくれたのか、一生懸命に母に伝えた。
話しているうちに涙で顔がぐしゃぐしゃになった。
「完ちゃんは、偉かったね。なかなかやるじゃないか」
 母は誇らしそうにそう言った。
「うん、すごく優しかったよ」
 わたしは言って、完二兄ちゃん、ありがとう、と心の中でつぶやいた。
 母はしかし、すぐに顔をしかめて、
「こんなことになるのも、わが家がこんなへんぴな場所にあるからだね。何とかせねば……」
 と独り言のようにつぶやいたのだった。

 

雨竜川第二弾 あすなろの木

 卒業式の日は冷たい雨だった。
 卒業生のわたしたちは卒業証書と通知表のほかに、たくさんの工作や図画、習字などを持ち帰らなければならない。ひとりだと持つのが大変だ。
 わたしは母が来てくれているのを確認してほっとした。
 教室の後ろに並んだ母が、
「それでも今日は、雪が降らないで良かったね」
 と隣にいる友子ちゃんのお母さんと話していた。
 入学時には七人いた同級生が、いまは四人になっていた。
 過疎化が進んでみんな共栄から去ってしまったのだ。男の子二人と女の子二人だけの卒業式である。六年間通った共栄小学校の思い出が、走馬灯のように思い出されて胸がいっぱいになった。学んだこと、楽しかったこと、つらかったこと、わたしは何一つ忘れまいと固く決心した。
 卒業証書を渡されたあと、校長先生のあいさつになった。
 校長先生は簡単に井上靖の「あすなろ物語」を紹介してから言った。
「この共栄から朱鞠内に入るところにヒノキアスナロの大木があります。ちょうど分かれ道に立っているから目印の木になっていますね」
「これから皆さんは朱鞠内中学校の生徒になるので、朝夕、この木を見ながら通学すると思います」
井上靖は『あすはヒノキになろう、なろうとするあすなろたち』と書きました。本当は違うんです。ヒノキアスナロはヒバとも言って、そのままですでに立派にひと様のお役に立てる素晴らしい木なんです」
「だから皆さんもどこで生活することになっても、自分はもともと立派なヒバの木なんだ。自分らしく頑張ればいいんだ、そういう風に思ってください」
 先生は、皆さんのことをずっと見守っています、という最後の声は涙でかすれてしまった。
 わたしは校長先生の涙に驚いた。
「おやおや、なんで校長先生が泣くのかい、泣くのはわたしたちのほうじゃないのかい」
 と思った。あすなろの話の意味も、じつはまだよくわからなかった。
 わたしの記憶がはっきりしているのは、校長先生の話に感動した母が、後日なんどか繰り返して、この卒業式のときのことを話してくれたからである。
「校長先生は共栄小学校が、いずれ廃校になることがわかってたのさ」
 と母は言っていた。
 しかし校長先生の話よりも、わたしはこれから通う朱鞠内中学校のことで頭がいっぱいだった。
 どんなところだろうかと、不安でいっぱいだった。
 卒業式が終わって、帰り支度をしながら友ちゃんに、
「いよいよ中学入学だね。なんだか怖いね」
 と話しかけた。友ちゃんも、
「そうだね。えみちゃんは何着て行くの? わたしは紺色のセーラー服と黒いズボンしかないんだ」
 と言う。わたしは、
「上下ともお下がりだよ。まつ子姉さんがむかし着ていたやつ」
 と答えながら、朱鞠内小学校から進学してくる子たちは、ピカピカの新しい制服を買ってもらうのではないかと考えていた。
 帰宅してから母に、
「中学の入学式には来てくれるんでしょ?」
 と確認した。来てくれるという返事に、
「何を着て行くの?」
 と重ねて聞いた。母は、
「これ。これしかねえべ」
 と言って、自分が来ている和服の襟を軽く叩いて言った。
 母は今日の卒業式に、自分がお嫁入したとき持ってきた和服を着ていた。
 よそいきの時に母が着る服は、確かにこれしかないのである。
 それでもわたしはこの着物を着ている母のことをとても美しいと思っていたので、その返事には満足だった。

 共栄から朱鞠内の間は山道で四キロある。
 夏は自転車で行けるが、雪が降れば歩くしかない。
 途中木が生い茂っていたり、道が消えかかっていたりで物騒だ。
 女の子は一人歩きしないよう、大人たちから厳しく言われていた。
 言われなくてもこんな寂しくて長い道のりを一人で歩く勇気はない。
 一緒に通う友ちゃんがいてくれて、本当に助かったと思っていた。

 いよいよ入学式当日。古里は春いまだ遠く、川と道路以外には雪がたっぷり残っていた。道路の雪は解けかかって、ドロドロでぐちゃぐちゃになっている。
 わたしは母と友ちゃん母娘と四人で歩いた。
 ランドセルから中学カバンに替わり、私服からセーラー服に服装も変わった。
ちょっと大人になった気がする。歩きにくかったけれど、浮き立つ気持ちもあり、できるだけ友ちゃんと並んで歩きたかった。
 下り坂ではあったが、たっぷり歩いてやっと朱鞠内中学校が見えるところまで来た。
 小高い丘の上、横に長い立派な二階建ての校舎である。

「友ちゃん、なんだか怖いね」
「でもえみちゃん、今日は母さんたちが一緒だから大丈夫だよ」
 ヒソヒソ話をしながら中に入った。
 共栄小学校に比べると、朱鞠内中学校はどこもここも広い。
 理科室や保健室や図書室など、小学校にはなかった場所が多くてビックリした。
 トイレの個室もたくさん並んでいる。
 わたしたちは親とはなれて、いったん二階の教室に入り席についた。
 荷物をおいて、入学式が行われる体育館に移動するように先生から言われて、
知らない同級生に囲まれて、私と友ちゃんは、手をつなぎながらそろそろと歩いた。

 体育館もとても広い。さきに入っていた保護者たちは、横の壁際に並んで私たちを見ていた。在校生のお姉さん、お兄さんたちも並んで待っていた。
「あっ!完ちゃんだ」
 三年生の兄を見つけて、心の中でニンマリしたが、兄と目を交わす余裕はなかった。

 十七人の新入生が次々に名前を呼ばれて起立した。校長先生の訓示を聞き、入学式はそれで終わった。次に保護者と一緒に二階の教室に入った。
 わたしたち新入生の担任は中田あき子先生で、二十代後半の眼鏡美人であった。

 中田先生からいろいろな注意事項を聞いたあとで、生徒一人一人の自己紹介があった。わたしはドキドキして心臓が口から出そうだった。何をしゃべったか全く覚えていない。
 それが終わって終業解散を告げられると、今日一日が無事に終わって良かったと心から安心した。
 中学校まで歩いての往復したこともあり、終日緊張していたこともあり、帰宅すると疲れがドッと出た。晩御飯もそこそこに、明日からの中学生活、がんばろうと思いながら、わたしは深い眠りに落ちた。

雨竜川第二弾 わたしはわたし

 わたしを身ごもった時、母はとても痩せている上に心臓が悪く、出産は母体が危ないのであきらめた方が良いと医者に言われた。
 父と祖母は主に経済的な理由から母に堕胎を勧めた。
 将来わたしを育てるお金の心配どころか、出産の前後に母に農作業を休まれることすら痛手になってしまうほど、貧しいわが家であった。

 しかし母は、すでに四人の子供にめぐまれていたのに、どうしてもわたしを産みたいと言い張って、ぜったいに諦めなかった。
 父も祖母も医師も、母の熱意に根負けするような形でわたしの出産を認めたのだった。
 こうしてわたしは上野家の末っ子として無事誕生した。

 いざ産まれると父は上機嫌で、
「さあ、名前をつけねばな……」
 と言った。
 初代の開拓者として上野家を興したのは祖父である。
 祖父の名前は光五郎という。
 祖父は自分の息子を照治と名前づけた。わたしの父だ。
「この子は俺の名前から一文字取って、照子という名はどうだべ。祖父さんは光る、俺は照らす、この子も照らす。
人のために周囲を明るくする。大事な意味のある名前だべ」
 父は自分で言って自分で納得し、そのように決めようとした。
 そのとき母から「待った!」がかかった。

 そもそもわたしを生むことは、父をはじめとする皆が反対した。
 それを忘れたかのように、わたしの小さな顔に頬ずりしている父に対して、母は猛然と腹を立てていた。今までだって姉たちをふみ子、まつ子と、実に古風な名前にしたことに対して、ずっと内心怒っていたのだ。
 今度は自分に名前を付けさせてもらう、母は強い調子で言った。
「照子はあんまりにも古風な名前です。これからの時代を生きていくのに可哀そうです。わたしは恵美子という名前を考えていました」
 このころ、岸恵子という女優さんが大人気で、恵子と名付けられる女の子が多かった。母はただ恵子だけではなく、さらに美しいという字を間に入れたのだ。
 わたしは美人という点では今も昔も完全に名前負けしているが、母の言う通り
いままで激動の時代を生きてきて、ずっと自分の名前が好きでいられた。

 大人になってからは、えみりんというあだ名で呼ばれることも多かったが、それも嫌ではなかった。
 もしも父に照子にされていたら、あだ名はてるりんになり、てるてる坊主の妹分みたいだったろう。
「私が、あんたの名前をつけてあげたんだよ」
 と母はいつも自慢していた。
 わたしは自分の名前が好きだったが、もしも違う名前だったら、違う人生を歩んでいたのだろうかと時々思うことがある。

 不思議なことだが、私には生まれたときの記憶がある。
 わたしが生まれたのは、共栄の自宅の仏間兼客間に使っていた奥の部屋である。
 祖母と産婆さんが心配そうに母の手を握っていた。
 雪がしんしんと降っていてとても寒い日だった。
 他の家族はとなりの居間に集まって、緊張しながらわたしが生まれる瞬間を待っていた。

 土間の向こうにいたアオが、ぶるるん!といなないた時、わたしは母の胎内から飛び出したのだ。
 この記憶がたしかに事実である証拠に、今まで一度も色あせたことも忘れたこともない。
 母の寝ていた布団の色まで覚えている。
 子どもの時から何度も母には、この記憶のことを話してきた。
 しかし肝心の母から返ってくる言葉は、いつも剣もほろろに、
「変なことを言う子だね……」
 馬鹿馬鹿しくて相手になっていられないという感じだった、
 その後わたしは古里である共栄から幌加内、札幌、東京と住む場所を変え、古里は遠くにありて思うもの、になってしまったが、やっぱり共栄の上野家を自分で選んで、
生まれてきたのだろうと思っている。

 母は医師から心配されたとおり、わたしを産んでからは産後の肥立ちが悪く、三年もの間、入退院を繰り返した。
 わたし自身も未熟児で栄養が行き届かず、身体が弱かった。
 原因不明の皮膚病で、身体じゅうが腫れあがってしまったことも、すでに書いた通りだ。
 しかしそうしたことも、成長後は親子の絆を深める結果になり、今となっては亡き母との大切な思い出になっている。

雨竜川第二弾 麻雀名人

 中学生になってうれしかったことは、小学校にはなかった専用の図書室があって、とても読み切れないほどの沢山の本と出会えたことだ。現実は田舎の村から町の中学校まで、毎日片道一時間かけて通う世界がわたしのすべてだったが、本の中に入ると心は世界じゅうに飛んでいくことができた。

 休み時間には図書室に行くのが楽しみだった。特に私が気に入っていたのは赤毛のアンだ。言うまでもなく、カナダの女流作家モンゴメリの書いた優れた児童文学である。
 わたしはカナダの美しい自然描写と古里のそれとの、意外なほどの共通点に驚き、
アンと自分を重ね合わせて、すっかり物語の主人公になったような気持になって読んだ。

 二年生になって朱鞠内への引っ越しがあり、今まで長い時間がかかっていた通学時間がわずか三分間に短縮されると、朝早くや下校時に、ちょっとしたすき間時間が手に入るようになった。わたしは喜んで図書館通いの回数をさらに増やした。

 わたしの読書好きを知った担任の中田あき子先生は、
「これは図書室の本ではなく先生個人の本よ。上野さんに貸してあげるわ。源氏物語
いうの。いちどは読んでおいて損はない名作よ」
 と分厚い百科事典のような本を貸してくれた。
 表紙の源氏物語というタイトルの下に、全十巻のうち一と書いてある。
「これ、十巻もあるんですか?」
 と私は驚いて中田先生に聞いた。
 中田先生はまだ二十代後半の若い先生だ。大学時代は教育学部にいながら、平安鎌倉時代の古典文学研究で有名な教授のゼミ生で、源氏物語は何度も読んだのだそうだ。
「そう。原作は五十四帖あるの。出版社が十巻にまとめたのよ」
 わたしは思わず固唾をのんだ。わたしとしては、
「わたしに古典を十巻も読めっていうの?」
 という重圧から思わず固唾をのんだのだが、先生は私がうれしくて興奮した証だと受け取った。

 貴重な本を借りたわたしは、それまでよりもさらに先生と親しくなって会話も増えた。今考えると中田先生は、共栄出身で朱鞠内に馴染めないわたしに、なにかと声をかけて孤立しないように考えてくださっていたのだと思う。

 そのうち何のきっかけだったか、わたしは小学校二年生で麻雀を覚えて、今では家族のだれよりも強いという話をした。すると先生は面白がって、
「こんどぜひ一緒に麻雀を打ちましょう」
 と誘ってくれた。

 ずいぶん寒くなってからのある日曜日、中田先生がわが家を訪れて、
「えみちゃんをお借りします」
 と言ってわたしを連れ出した。行き先は歩いて二分たらずのところにある島先生の家だ。すでに島先生は奥様と雀卓を出して、わたしたちの到着を待っていた。
「いらっしゃい。さっそく麻雀名人にお手合わせ願おうか」
 そこでわたしはペコリとお辞儀して、大人三人の間に入って牌を並べた。
「おっ、これは手つきがいいぞ。本当に強敵かもしれない」
 島先生が上機嫌でそういった。島先生は当時四十歳くらい、奥様は少し年下で、
お子さんはいなかった。

 わたしが小学校二年生のある日、長兄の秀ちゃんが、どこからか麻雀牌をもらってきた。わたしたちは初めて見る麻雀牌が珍しくて、大いにはしゃいだ。
 さっそく秀ちゃんは、本を見ながら対戦の仕方を教えてくれた。
 秀ちゃんは勉強でも遊びでも教え上手だ。ただ彼の教え方はいつも一対一だった。
 手早くまつ子姉、たけ子姉、そして次兄の完ちゃんの順に教えると、気の早い完ちゃんは、すぐにゲームを開始したがった。
「そうだな。みんなで実際にやりながらルールや役を覚えていくべ」
 秀ちゃんたち四人で麻雀をやり始めると、みんな大いに盛り上がった。

 麻雀自体には興味を示さず、子供たちの様子だけちょくちょく見に来ていた母が、
だれにも相手にされずに、ただぽつんと指をくわえて兄や姉のする麻雀をながめて
いるわたしを発見した。母はひどく怒って、
「こら、秀一。なんで一番ちいさいえみこに、ちゃんと麻雀を教えてあげないのさ」
 と、長兄をなじった。

「そうだよ。わたしは私はちっちゃいんだから、ちゃんと教えてくれなきゃできないよ」
 とわたしは口をとがらせたが、そのタイミングで涙がどっとこぼれ落ちた。
 心の中でずっと寂しさにたえていたのだ。
 秀ちゃんは慌ててわたしにも教えてくれて、交代で麻雀に加えてくれたが、教わるのが遅かった分、わたしはなかなか要領がつかめずに、ほかのきょうだいから散々やられてばかりだった。

 翌日からわたしは、秀ちゃんがいないすきに麻雀の本を持ち出してはこっそり開いて、むしゃぶりつくように読んだ。勉強はそっちのけで、麻雀のルール、パイの呼び方、役の作りかたを一生懸命おぼえたのだ。
 そのかいがあって、すぐにきょうだいの仲間入りができるようになった。

 きょうだいの中で一番強いのはわたしだった。
 何しろ末っ子だから学校から一番早く帰って来られる。学校から帰ったらまず麻雀の本を読んで猛勉強だ。新聞に出ている麻雀の記事なども、関心を持って読むようになった。そのためいつの間にか打ち方のコツを覚え、ゲームの流れが作れるようになっていた。

 それに反していつもハコ天(最下位)になってしまうのは完ちゃんだ。
 完ちゃんはいつも高い役ばかりを狙って打つ。ゲームの流れを無視して、役作りばかり追い求めるので、自分から当たり牌を振り込んでしまうのだ。
 そのつど大げさに悔しがるので、わたしはいつも爆笑していた。

 いちど父が面白半分に仲間入りしてきたことがある。
「俺はプロだから、子供麻雀では役不足だけどな」
 と最初は威勢が良かったが、わたしに次々と点棒をはぎ取られて、完ちゃん以上に大負けしてしまった。父は二度とわたしと麻雀をしようとしなかった。

 中学生になってからは、家庭ではほとんど麻雀をする機会はなかったが、打ち方は指が覚えていた。わたしはすぐにみんなの癖を飲み込んだ。
 この中では島先生が一番強いが、特徴のある打ち方をしていた。
 中田先生は手筋をよく知っていて、わたし同様、本で学んだ感じがした。
 島先生の奥様が一番弱くて、ご自分でも麻雀はお付き合いだと、割り切って打っている感じだった。

 わたしは島先生を狙い撃ちにした。そしてわざと奥様に勝ちを譲った。
 何度か繰り返してやったが、ずっとトップが奥様で、ビリが島先生という順位になった。外はいつの間にか真っ暗になっていた。

 マージャンがおわると、奥さまの手料理がテーブルいっぱいにならんだ。
「うちの奥さんは器量は悪いけど、料理は飛びぬけておいしいんだよ」
 と、島先生がくだらない冗談をいった。
 しかし確かにとても美味しいお料理だった。
 そもそも我が家では絶対こんなごちそうは食べられないというメニューばかりだった。

 麻雀を打っていてわかったが、島先生はすごく執念ぶかく勝負にこだわる性格だった。そのため、
「ちょっと今日は調子が悪かったけれど、上野さん、次の日曜日にもまた来てくれないか」
 と先生のほうから誘って来た。奥様も、
「ごめんなさい、良かったら主人に付き合ってあげてください」
 という。教師が中学生を麻雀に誘うなど、いまの時代では考えられないことだ。でも奥様の手料理に魅了されていたわたしは、いいですよ、と首を縦に振ったのだった。

 驚くべきことに、この日曜の午後の麻雀会は島先生が翌年三月に転勤するまで、ほぼ毎週、半年近くも続いたのだった。お金をかけていたわけではなかったから、勝負の結果は覚えていない。でも毎週麻雀のあとにいただいた奥様の手料理と、至福の時間のことはいまでもはっきりと思えている。

 ちなみに中田先生に貸していただいた源氏物語は、読んでみるとベタベタの恋愛小説だった。やはりわたしには早すぎて、半年経っても十ページも読めずに挫折してしまい、わが家の本棚で埃をかぶる羽目になったのであった。

 

雨竜川第二弾 朱鞠内でのくらし

 わが家が朱鞠内に引っ越すことは、決まった次の日に村じゅうに知れ渡った。
 村の入植時は十二軒だった家だが、分家したり、新しく仲間入りする家があったりして最盛期には三十軒を超えたという。しかしわたしたちが去るときには、すでに過疎化が進んでいて、戸数は十軒を割っていた。

 これ以上共栄にいては、わが家も生活の見通しが立たないのだ。
 別れを惜しむ隣近所が、入れ替わり立ち替わり訪れてきて、中には幼馴染の子どもらもいた。同じ中学に通う子以外とは、もうめったに会えなくなるとなると、泣き虫のわたしは涙が乾くひまがなかった。
 まぶたと鼻を赤く腫らしたまま、わたしは大きな風呂敷を背負い、荷物を満載した荷車の後ろを押しながら村を出た。

 わたしはすでに朱鞠内の中学校に通っていたので町のこともよく知っていた。役場や郵便局や病院や商店があって共栄とは大違いだ。
 中学への通学路には駄菓子屋さんもあって、欲しいものがたくさん並んでいた。
 これからわたしは、この町の住人になるのだ。

 しかし引っ越してきたときには、まだ実感がわかなかった。
 少しずつ気持ちが切り替わってきたのは、トイレに白い陶器製の金かくしが取り付けられているのがわかったときからだ。共栄の家のトイレは板切れを渡したものを足場にして、下に向かって用を足していた。
「おおっ、トイレが学校みたいにきれいだ」
 わたしと完ちゃんがきゃあきゃあ騒いでいると、また一つ驚くことが起きた。
 もう夜なのに、窓越しに隣近所が立てる物音が聞こえてきたのだ。
 隣近所が並んで建っているのだから当たり前のことだが、共栄ではポツンポツンとしか家がなかったので、隣の物音が聞こえてくるなどという経験がなかった。

 正直言ってびっくりした。その日は興奮でなかなか寝付けなかった。
 朱鞠内での最初の朝は、母がかき回すぬか床の匂いで始まった。
 母が実家から持ってきて二十年以上経つぬか床は、共栄から持ってきた大切なものの一つであった。
 おふくろの味がする漬物で朝食を済まし、元気いっぱい学校に向かった。

 休み時間、図書室で朱鞠内のことをいろいろ調べてみた。
 地名の由来は「狐がよくでる沼地なので、狐のいる沢というアイヌ語からきている」ことがわかった。狐のいる沢と聞くと、ああそうですかと思うだけだが、朱鞠内という美しい字をあてることにしたのは誰だろう、とてもロマンチックだと思った。
 わが家がここに来た五年前に朱鞠内市街で大火事があったそうだ。
 百軒もの家が焼け出されて、それ以後、急激に人が少なくなったという。
 それでもわたしが引っ越してきたときには、まだ三百軒ほどの家があった。共栄とは大違いだ。

 下校時間になった。学校からわが家までわずか徒歩三分だ。今まで一時間かけて歩いて帰っていたのがウソのようだ。
 わたしはあえてちょっと寄り道をしてみた。

 新しい家の裏手に小高い丘がある。
 昨日からずっと気になっていたので、そこへ行ってみることにした。
 その丘の上には何もないらしく、ちゃんとした道はなかった。わずかに人の通ったあとがあったが、そこにも腰の高さの草がポヨポヨと生えていた。しかし田舎育ちのわたしには、それくらいの雑草を踏み分けて進むのには、何の苦労も要らなかった。

 これが共栄なら、背丈ほどの雑草がボウボウと生えていて見通しも利かず、
「そんなところに入ってくと危ねえぞ、ヒグマかイノシシのでかいヤツに出くわすべ」
 と誰かに叱られてしまうこところだ。絶対に一人では行けない。

 この丘に登る道は、朱鞠内での新しい生活を始めたわたしを幸せへみちびいてくれるはずだと、そんな妄想を楽しみながら、わたしはわずかな登り道をゆっくり歩いた。
 丘のてっぺんに来て、わたしはそこから見える景色に息をのんだ。
 朱鞠内の町が見下ろせる。細長い街だから途中で隠れてしまっているが、家々が並んでいるのがわかった。
 夕やけ空はあまりにも美しく周囲をオレンジ色に輝かせていた。きっとわたし自身も夕陽をばっちり反射させて、全身がオレンジ色に輝いているだろう。
 わたしはしばらくの間、うっとりとたたずんでいたが、そのうち共栄がある方角に目が向くと、突然生まれ古里を思い出した。
 捨ててきた、捨ててきた、わたしは捨ててきてしまったんだ。
 後ろめたい気持ちが湧き、共栄が懐かしくてたまらなくなってきた。
 わたしは感傷を振り払うように、走って新しい家に戻ったのだった。

 すっかりお腹をすかせて帰ると母が、
「今日は、ごちそうだよ」
 と言って石油コンロの上を指さした。
 サバ味噌の缶詰が一個乗っている。中をのぞくと汁だけが煮えていた。
 味噌の表面がポコポコ泡立って、おいしそうな匂いが広がっている。今が食べごろだ。
「中のサバの身はどうした?」
 わたしが尋ねると母は、
「とうさんと兄さんたちの弁当に入れた」
 という。
「他のおかずは?」
「これしかないよ」
 悪びれもせず母は答えた。
「さあ食べよう。白いご飯の上に載せて食べたらおいしいよ」
 汁の中にはわずかにサバの欠片が混じっていた。箸でサバの欠片をつまんで白いご飯の上にのせる。欠片をチョンチョンと載せたあと、スプーンで汁もかける。
 茶色く色づく白いご飯、ふたりで熱いのをアフアフ言いながら食べた。
 サバ味噌の汁と白ごはん、絶妙なハーモニーだ。

 もともと貧乏だったわが家が、無理な算段をして家を買った。
 これからよほどの節約をしなければ、たちまち借金が返せなくなる。
 だから一菜だけで食事はおしまい。一菜というのもお粗末である。

 でも大好きな母と二人で食べた、身のないサバ味噌ご飯。

 貧しさが工夫させたメニューだが、私はとても幸せだった。心から幸せを感じながら食べたあのご飯の味は、今でも忘れられない。

 

雨竜川第二弾 共栄を去る

 わたしが中学二年の夏休みを終えるころ、農作業で忙しいはずの母が連日どこかに出かけるようになった。どこに行っているのか母は話してくれなかったが、明日から二学期という前の晩の夕食どき、
「みんなに重大発表があります。新しい家がやっと手に入ったよ!」
 と種明かしをしてくれた。
「以前からとうさんと引っ越しの相談をしていてね。どこかいい物件はないかと探していたんだ。そしたら朱鞠内に、いい空き家があるって教えてくれる人がいてね。その持ち主のところに、ぜひ家を譲ってくれるように毎日通って行っていたのさ」
「そしたらとうとう今日、ゆずってあげるといってくれたよ」
 母がこんなに明るくはしゃいでいるのを見るのは初めてだった。
 わたしと同じく何も知らされていなかった兄たちは驚いて母を質問攻めにした。
 新しい家の場所は朱鞠内中学校のすぐ近くで、広さはいまの家の半分くらいだったが、すでに叔父と叔母は同居しておらず、姉たちは奉公に出ており、じっさいに新しい家に住むのは祖母、父母、兄二人とわたしの六人だったし、もう家畜もほとんど飼っていないから、家が狭くなっても問題なかった。
 わが家では、農耕馬のアオが死んでからというもの、少しずつ山羊も綿羊も豚もニワトリも鳩もウサギも処分してしまっていたのだ。

「善は急げだ。持てるだけの荷物を持ってすぐに引っ越すべ」
 父も嬉しそうに言った。
 次の土曜日、午後から朱鞠内の家の掃除に行き、日曜日には荷車二台に寝具と積めるだけの物を積んで、とりあえず引っ越してしまおうという相談がまとまった。
 運ぶのが大変なものは、別の日に、父と兄たちが知り合いから馬車を借りて運んでくれるという。
「こっからそんなに遠いわけでもねえ。何度でも往復するさ」
 父の言葉に母も笑顔でうなずいた。
 共栄と朱鞠内の距離は山道で四キロほど隔たっていた。
 わたし自身、毎日中学校に通っている距離だから、冬場だって子供の足で往復できる距離ではある。遠くないといえば遠くない。おなじ幌加内町内だといえば幌加内町内だ。

 しかしながらこの四キロの距離は、わたしたち共栄生まれの者にとってはとても重要な意味があった。
 遠く岐阜県から祖父母を含めた十二軒の農家が共栄に入植したのは大正年間のことである。
 明治のはじめに開拓使が置かれて北海道の開発が急務となった。大正時代はそれからわずか半世紀あとであったが、肥沃な土地や比較的暖かい土地、資源のある土地などは、すでに内地から来た大企業や大富豪が所有しており、零細な開拓農家が入っていける土地はほとんど残っていなかった。
 たとえゼロからであっても土地がもらえて、開拓を許される土地というのは、
「こんなところに人が住めるの?」
 と言われるような劣悪な条件の場所ばかりであった。

 幌加内町でも事情は同じで、昔から自然資源が豊かであった朱鞠内には新参者が参入する余地はなかった。雨竜川沿いに密林を踏み分け踏み分け登った地域、狩人以外は人間が入ることのない地域、わたしの祖父、上野光五郎はその未開の原生林を、自分たちの墳墓の地と決めたのである。
 入植のとき光五郎はまだ三十前の青年であった。
 彼は家族や仲間と力を合わせて家を作り、道を拓き、畑を耕し、家畜小屋を建て、井戸を掘り、さらにはこの地域では珍しかったデンプン工場を建設して事業を始めた。
鉄道の支線が共栄まで伸びたのも、村に小学校が建ったのも、祖父の尽力が大きかった。
 ところがまだ五十一歳の働き盛りのとき、線路に迷い込んだ小さな女の子を救助しようとして、一緒に轢死してしまったのだ。あとには祖母と八人の子供たちが遺された。
 長男だったわたしの父は学校にも行かず、ゆえに読み書きを知らず、家計を支えるために働き続けたのである。
 共栄の家には、道には、橋には、畑には、わたしの祖父や祖母や一族の血と汗と涙が染みこんでいるのだった。

 引っ越しは新しい生活へのスタートだ。わたしも希望を感じないわけではなかった。
しかし共栄にまつわる思い出が頭をよぎるたび、胸がざわざわして涙があふれるのをとめることができなかった。
「なんでこんなに悲しいんだべ。でもよ、きっとまた帰ってくるべさ」
 心に固くそう誓って、わたしは古里の景色を目に焼き付けようと、何度もまばたきを繰り返した。

雨竜川第二弾 悲しみの彩り

 小学校三年生のとき、きょうだいのように大切にしていた馬のアオが死んだ。
 四年生になる直前に大親友の良子ちゃんが引っ越して行った。
 四年生の秋の終わりにもも子ちゃんが事件に巻き込まれて、家族で引っ越して行った。
 まつ子姉、たけ子姉は中学を卒業すると、それぞれ遠くに奉公に出てしまった。
 別れはいつも暗闇が襲い来るような感覚で、わたしの心を冷たく苛んだ。
 ちょうどひとりぼっちで取り残されて、相手の姿も声も聞こえないところで、
 わたしの心の中の声だけが、相手の名前を繰り返し、繰り返し、繰り返して呼ぶ。
 そのころまでの悲しみの彩りは決まって黒い色をしていた。

 中学二年の晩春、わたしは新しい悲しみの色を知った。
 それは真っ白で、わたしの四方に壁のように立ちはだかって、うねうねと周囲でうごめくのだが、ときどきビシッという音とともに亀裂が入り、そこから真っ赤な血が噴き出すのだ。これは自分の心の中の話である。悲しみの彩りには赤い血の色もあるということを知った。

 朱鞠内の中学は、東京の中学などとは比べものにならないくらい、生徒数が少なかった。東京で同年配の人から話を聞くと、
「一九七〇年ごろといえば生徒数がウナギ上りに増えていた時代さ。三階建ての新校舎が建っても二年、三年だけでいっぱいになってしまってね」
「校庭にカマボコみたいなプレハブ校舎を建てて、一年生はそこを使うんだけれど、安普請でさ。夏は暑くて冬は寒くて、それはもう大変だった」
 などと説明される。ひとクラスも四十五人から五十人が定員だったそうだ。

 その当時、北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内にあった私が通っていた中学校は二年生が二十人、二学期の途中で女の子が一人引っ越して行ったから十九人だった。
全校生徒合わせても六十人もいない。

 山奥の閉ざされた共栄という村から通っているわたしにとって、じもとの朱鞠内小学校から進学してきた子たちは、ずっと良い家庭の子ばかりが通っているような感覚がした。
 一家の末っ子で親兄弟から甘やかされ、共栄では人怖じなどしたことのなかったわたしだが、朱鞠内の中学校では勝手が違ってなかなか友達ができないでいた。
 わが家と同じく共栄から通っている友ちゃんだけが、お互いに気を遣わずに語り合える友達だったが、その友ちゃんが、お父さんの仕事の都合で、二学期の途中で転校することになったのである。

 このところ少しずつ親しくなっていた朱鞠内出身の文江さんと二人で、友ちゃんの家までお別れに行くことにした。私は同じ村の友ちゃんの家には小さいときからよく遊びに行っていたが、文江さんは初めての訪問だった。
 文江さんは友ちゃんの家がとても小さいのを見て驚き、屋根のノキが自分の頭より低い位置にあるのを見て驚き、窓ガラスにひびが入っていてセロテープで補修してあるのを見て驚いていた。
 そして友ちゃんのお母さんが出してくれた湯呑の中身が、じつはお茶ではなくてただの白湯だったのに気づくと、もう口をつけようとしなかった。

 友ちゃんの家から帰るとき、友ちゃんは少しのあいだ見送ってくれた。
 三人で並んで歩いているとき、文江さんは突然、
「共栄の人たちって、とても貧乏なんだね。わたしビックリしたよ」
 と言った。彼女は悪気なくものごとをはっきり言う子だったので、友ちゃんも素直に言った。
「うちはその中でも特に貧乏だからね、仕方がないよ」
 わたしは二人のやり取りにショックを受けた。
 えっ? なに? 貧乏? 貧乏のどこがいけないの。貧乏だから何だと言うの?

 わたしは文江さんの家を見たことがあった。できたばかりの国鉄の社宅だから、それはきれいな家だった。国鉄の力で建てた社宅なんだから当たり前で、人はみんな生まれ合わせたところで生活をしているだけで、貧乏がいけないなどとは思っていなかった。この日、文江さんから面と向かって貧乏と言われて初めて考え込んだ。

 貧乏とはなんだろう。お金がないこと? 洋服がないこと? 食べるものが粗末なこと?
 たしかに我が家でも兄や姉は高校に進学する余裕もなく、中卒で働いていて、とても大変だと思っていたけれど、私たちは一生懸命生きてきた。温かな家族に囲まれて、わたしはなんの不自由も感じないで暮らしていた。

 文江さんは決して、友ちゃんやわたしが貧乏だからいけないと言っていたわけではないと思う。でもなんだか大変そうだなあとか、可哀そうだなあという哀れみ、さげすむような気持を持っていたことも間違いないだろう。
 朱鞠内に住んでいる文江さんたちとは、共栄から来ている連中は違うんだという意識はあったように思う。
 わたしはこの時、心の中でビシーッと鋭い音がして、さけ目から血が噴き出したような気がした。

 物がないのは不便である。そのことで、かかなくても良い恥をかくこともあった。
 修学旅行の直前に集団行動の練習をするためということで、朱鞠内湖への遠足があった。
 ここで生まれ育った子たちにはお馴染みの場所で、珍しくもなかったろうが、転入生のわたしにとってはワクワクする経験だった。
 ところが一つ問題が起きた。担任の森先生が、
「けっこう冷えるから上着が必要だよ。各自、動きやすい上着をお母さんに用意してもらいなさい」
 と言ったのだ。
 わが家にはわたしが外に着て行ける上着はない。
 どうしよう、どうしようと思い悩んでいるうちに、いよいよ明日が遠足の日というタイミングになった。
「かあさん、じつは明日、遠足なんだけど、わたし着ていく服がないんだ。どうしたらいい?」
 わたしは半べそをかきながら母に相談した。
 母は少しの間考えていたが、やがてきっぱりと言った。
「うちには何もないねえ。今からじゃ古着を縫い直している時間もないし、ご近所に借りよう」
 そう言ってわたしを伴い、隣近所を訪ね歩いた。
 わが家は引っ越してきたばかりで、まだ近所と親しくなれていない。
 一軒目、二軒目の家ではすげなく断られてしまった。
 しかし、三軒となりのおばさんは、わたしたちを家にあげてくれて、親身になって話を聞いてくれた。
「あらまあ、可哀そうに。着ていく上着がないのかい。それじゃ良かったら、これを使って」
 と、おばさんは奥から自分のベージュのジャンパーを持ってきた。
 母はそくざに、
「ありがとうございます。ほんとに助かります」
 と言って手をのばし、自分の胸元におしあてた。
 わたしもほっとした。
 もちろん十四歳の女の子が身につけるには地味な色だったが、ぜいたくを言っている場合ではなかった。
 翌日、借りたジャンパーを制服の上に着こんで家を出た。整列して学校を出たわたしは、チラチラと横目で同級生を観察した。女の子たちは色とりどりの可愛い服を着ている。おばさん色のジャンパーを着ていのはわたしだけだった。
 でもわたしは着て行けるものが借りられただけ、とても幸運だったと考えて、貸してくれたおばさんと母に感謝した。

 朱鞠内湖は、雨竜ダム建設に伴って作られた大きな人造湖である。
 秋の湖水は柔らかい日差しを反射し、深いところは紫色に見えた。
 雨竜川の小刻みなせせらぎに慣れた私には、一見まったく動かない湖面が油絵のように感じられた。
 岸辺は深く切れ込んでいたり突き出していたり、丘が湖面にせり出して切り立った崖が境界線だった。
 よく目を凝らすと大小の島々が浮かんでいて、大きな水鳥が羽を休めていた。

 湖畔につくと自由時間がもらえた。みんなは散らばって思い思いに遊びはじめた。
 写生をする子、鬼ごっこをする子、バトミントンをする子、合唱を始める子、それぞれ楽しんでいる。
 わたしは借り物のジャンパーを少しも汚さないようにしようと決意していた。
 そのためには動きの少ない写生をするのがいいだろうと考えた。
 木の切り株を椅子代わりにして、湖面の写生を始めた。
 広く美しくキラキラ輝く朱鞠内湖は絵の題材にもってこいだった。

 最初はジャンパーを汚さないようにと細心の注意を払っていたが、そのうち写生に熱が入って夢中になった。
 ちょっとしたはずみで絵の具が地面に落ち、それを拾おうとかがんだとき、ジャンパーの裾が湿った地面についてしまった。
「あっ、しまった」
 そう思って確かめてみると、泥汚れがついている。
「借り物なのに、汚しちゃった!」
 頭の中が真っ白になった。あわてて立ち上がり、はたいてホロッたけれど、シミになってしまった。
 強くこすったらますます汚れが広がった。
「あんなに気を付けていたのに、汚すなんて……」
 わたしはとても悔しかった。すごく悲しくなった。もう写生をしている気分ではなくなった。帰り道はずっと、
「ああ、この汚れが取れなかったら、どうしたらいい?」
 とハラハラドキドキしながら帰った。
 母に訴えると、すぐに汚れを洗い落としてくれた。わたしはほっと胸をなで下ろした。

 いま考えるとこれも貧しさゆえの苦労だったのか。
 母とあのおばさんがいなかったら、身を刺すような冷たい秋風が吹く中を、薄い制服だけで朱鞠内湖に行かなければならなかっただろう。
 そしたら文江さんたちにまた何と思われたか。
 当時を思い出すたび、着ていく服がないと半べそをかいて母に訴えていた十四歳の自分の顔がよみがえる。
 切なさで胸がいっぱいになる。これを貧乏というのだろうか。

 いよいよ修学旅行が間近にせまった。行き先は道内屈指の観光地、函館である。
担任の森先生が、
「宿の部屋割りを発表する」
 と言った。
「上野さん、合川さん、川田さん」
 森先生がそう発表したので、わたしはとても嬉しくなった。
 わたし、文江さん、小百合さんの三人組だ。
 文江さんは個性的なところはあるが、さっぱりした性格で、友ちゃんが転出したいまはクラスで一番の友達だ。
 小百合さんは無口で大人しい人で、いつも周囲に気遣いしてくれる接しやすい子だった。
「この三人とならば、修学旅行も楽しいべ」
 わたしはそう思ったのだ。ところが次の瞬間、
「いやだー、嫌ですー!」
 教室中に川田小百合さんの泣き声が響いた。
「上野さん、合川さんとじゃ嫌だー。よく知らない人と同じグループは嫌だ!」
 小百合さんは机の上に突っ伏して、ポタポタと大粒の涙を落した。
「イヤです。グループを変えて下さい……」
 と泣きながら訴えている。
 えっ? なに? どういうこと?
 余りに意外な成り行きに、わたしは固まってしまった。
 森先生も宿舎の部屋割りが不満で大泣きされたのは初めてだったのだろう。
 まったく何も言わずに、ただ小百合さんを見つめていた。
 日ごろ自己主張をすることのない小百合さんだから、今回の部屋割りも難なく受け入れるだろうと予想していたに違いない。森先生は咳ばらいをしてから、
「うん、川田さん。わかったから、もう泣かなくていい。隣のグループ奥村さんと代えましょう」
 と言った。
 奥村真由美さんは中学校入学のときによそから転入してきたので、朱鞠内の小学校時代から一緒の仲良しグループではなかった。
 小百合さんは奥村さんと入れ替わったことで、朱鞠内小学校から一緒に進学してきた友人たちと一緒の部屋割りとなった。小百合さんはやっと泣き止んで笑顔になった。

 わたしはこのとき、ものすごくショックを受けていた。小百合さんは大人しくてなにも言わない人だけれど、心の中ではわたしをよそ者扱いしていたのだ。
 わたしはまだ同級生の中では孤立していた。ひとりぼっちなのだ。
 友ちゃんもいなくなって、文江さんとは価値観が合わないところがあり、今日はまた小百合さんからよそ者扱いされてしまった。
 ボロボロと大粒の涙を流して泣いていた小百合さんのことを思い出すと、そんなに嫌われていたのかと、悲しくて心に大きなしこりができてしまった気がした。

 その日は学校の帰り道も一人でトボトボと歩いて帰った。
 通学路の楽しい鳥のさえずりも、笹の葉ずれも、今日はなにも耳に入らなかった。
 その夜わたしは、ひと晩じゅう泣いた。
 人の悲しみの彩りには、相手から傷つけられて真っ赤な血が噴き出たような、そんなものもある。十四歳のわたしには忘れられない悲しい思い出だった。

 その小百合さんとわたしは還暦近くなってから偶然再会して、懐かしい思い出話に花を咲かせた。
 あのとき心を傷つけられたわたしは、もうどこにも存在していなかった。
 幾年もの歳月がわたしの心を強くしていたのだ。
 小百合さんは修学旅行の部屋割りの一件はほとんど忘れ去っていて、わたしたちは新たな友情を築くことに、なんのためらいもなかった。