雨竜川第二弾 朱鞠内でのくらし

 わが家が朱鞠内に引っ越すことは、決まった次の日に村じゅうに知れ渡った。
 村の入植時は十二軒だった家だが、分家したり、新しく仲間入りする家があったりして最盛期には三十軒を超えたという。しかしわたしたちが去るときには、すでに過疎化が進んでいて、戸数は十軒を割っていた。

 これ以上共栄にいては、わが家も生活の見通しが立たないのだ。
 別れを惜しむ隣近所が、入れ替わり立ち替わり訪れてきて、中には幼馴染の子どもらもいた。同じ中学に通う子以外とは、もうめったに会えなくなるとなると、泣き虫のわたしは涙が乾くひまがなかった。
 まぶたと鼻を赤く腫らしたまま、わたしは大きな風呂敷を背負い、荷物を満載した荷車の後ろを押しながら村を出た。

 わたしはすでに朱鞠内の中学校に通っていたので町のこともよく知っていた。役場や郵便局や病院や商店があって共栄とは大違いだ。
 中学への通学路には駄菓子屋さんもあって、欲しいものがたくさん並んでいた。
 これからわたしは、この町の住人になるのだ。

 しかし引っ越してきたときには、まだ実感がわかなかった。
 少しずつ気持ちが切り替わってきたのは、トイレに白い陶器製の金かくしが取り付けられているのがわかったときからだ。共栄の家のトイレは板切れを渡したものを足場にして、下に向かって用を足していた。
「おおっ、トイレが学校みたいにきれいだ」
 わたしと完ちゃんがきゃあきゃあ騒いでいると、また一つ驚くことが起きた。
 もう夜なのに、窓越しに隣近所が立てる物音が聞こえてきたのだ。
 隣近所が並んで建っているのだから当たり前のことだが、共栄ではポツンポツンとしか家がなかったので、隣の物音が聞こえてくるなどという経験がなかった。

 正直言ってびっくりした。その日は興奮でなかなか寝付けなかった。
 朱鞠内での最初の朝は、母がかき回すぬか床の匂いで始まった。
 母が実家から持ってきて二十年以上経つぬか床は、共栄から持ってきた大切なものの一つであった。
 おふくろの味がする漬物で朝食を済まし、元気いっぱい学校に向かった。

 休み時間、図書室で朱鞠内のことをいろいろ調べてみた。
 地名の由来は「狐がよくでる沼地なので、狐のいる沢というアイヌ語からきている」ことがわかった。狐のいる沢と聞くと、ああそうですかと思うだけだが、朱鞠内という美しい字をあてることにしたのは誰だろう、とてもロマンチックだと思った。
 わが家がここに来た五年前に朱鞠内市街で大火事があったそうだ。
 百軒もの家が焼け出されて、それ以後、急激に人が少なくなったという。
 それでもわたしが引っ越してきたときには、まだ三百軒ほどの家があった。共栄とは大違いだ。

 下校時間になった。学校からわが家までわずか徒歩三分だ。今まで一時間かけて歩いて帰っていたのがウソのようだ。
 わたしはあえてちょっと寄り道をしてみた。

 新しい家の裏手に小高い丘がある。
 昨日からずっと気になっていたので、そこへ行ってみることにした。
 その丘の上には何もないらしく、ちゃんとした道はなかった。わずかに人の通ったあとがあったが、そこにも腰の高さの草がポヨポヨと生えていた。しかし田舎育ちのわたしには、それくらいの雑草を踏み分けて進むのには、何の苦労も要らなかった。

 これが共栄なら、背丈ほどの雑草がボウボウと生えていて見通しも利かず、
「そんなところに入ってくと危ねえぞ、ヒグマかイノシシのでかいヤツに出くわすべ」
 と誰かに叱られてしまうこところだ。絶対に一人では行けない。

 この丘に登る道は、朱鞠内での新しい生活を始めたわたしを幸せへみちびいてくれるはずだと、そんな妄想を楽しみながら、わたしはわずかな登り道をゆっくり歩いた。
 丘のてっぺんに来て、わたしはそこから見える景色に息をのんだ。
 朱鞠内の町が見下ろせる。細長い街だから途中で隠れてしまっているが、家々が並んでいるのがわかった。
 夕やけ空はあまりにも美しく周囲をオレンジ色に輝かせていた。きっとわたし自身も夕陽をばっちり反射させて、全身がオレンジ色に輝いているだろう。
 わたしはしばらくの間、うっとりとたたずんでいたが、そのうち共栄がある方角に目が向くと、突然生まれ古里を思い出した。
 捨ててきた、捨ててきた、わたしは捨ててきてしまったんだ。
 後ろめたい気持ちが湧き、共栄が懐かしくてたまらなくなってきた。
 わたしは感傷を振り払うように、走って新しい家に戻ったのだった。

 すっかりお腹をすかせて帰ると母が、
「今日は、ごちそうだよ」
 と言って石油コンロの上を指さした。
 サバ味噌の缶詰が一個乗っている。中をのぞくと汁だけが煮えていた。
 味噌の表面がポコポコ泡立って、おいしそうな匂いが広がっている。今が食べごろだ。
「中のサバの身はどうした?」
 わたしが尋ねると母は、
「とうさんと兄さんたちの弁当に入れた」
 という。
「他のおかずは?」
「これしかないよ」
 悪びれもせず母は答えた。
「さあ食べよう。白いご飯の上に載せて食べたらおいしいよ」
 汁の中にはわずかにサバの欠片が混じっていた。箸でサバの欠片をつまんで白いご飯の上にのせる。欠片をチョンチョンと載せたあと、スプーンで汁もかける。
 茶色く色づく白いご飯、ふたりで熱いのをアフアフ言いながら食べた。
 サバ味噌の汁と白ごはん、絶妙なハーモニーだ。

 もともと貧乏だったわが家が、無理な算段をして家を買った。
 これからよほどの節約をしなければ、たちまち借金が返せなくなる。
 だから一菜だけで食事はおしまい。一菜というのもお粗末である。

 でも大好きな母と二人で食べた、身のないサバ味噌ご飯。

 貧しさが工夫させたメニューだが、私はとても幸せだった。心から幸せを感じながら食べたあのご飯の味は、今でも忘れられない。

 

雨竜川第二弾 共栄を去る

 わたしが中学二年の夏休みを終えるころ、農作業で忙しいはずの母が連日どこかに出かけるようになった。どこに行っているのか母は話してくれなかったが、明日から二学期という前の晩の夕食どき、
「みんなに重大発表があります。新しい家がやっと手に入ったよ!」
 と種明かしをしてくれた。
「以前からとうさんと引っ越しの相談をしていてね。どこかいい物件はないかと探していたんだ。そしたら朱鞠内に、いい空き家があるって教えてくれる人がいてね。その持ち主のところに、ぜひ家を譲ってくれるように毎日通って行っていたのさ」
「そしたらとうとう今日、ゆずってあげるといってくれたよ」
 母がこんなに明るくはしゃいでいるのを見るのは初めてだった。
 わたしと同じく何も知らされていなかった兄たちは驚いて母を質問攻めにした。
 新しい家の場所は朱鞠内中学校のすぐ近くで、広さはいまの家の半分くらいだったが、すでに叔父と叔母は同居しておらず、姉たちは奉公に出ており、じっさいに新しい家に住むのは祖母、父母、兄二人とわたしの六人だったし、もう家畜もほとんど飼っていないから、家が狭くなっても問題なかった。
 わが家では、農耕馬のアオが死んでからというもの、少しずつ山羊も綿羊も豚もニワトリも鳩もウサギも処分してしまっていたのだ。

「善は急げだ。持てるだけの荷物を持ってすぐに引っ越すべ」
 父も嬉しそうに言った。
 次の土曜日、午後から朱鞠内の家の掃除に行き、日曜日には荷車二台に寝具と積めるだけの物を積んで、とりあえず引っ越してしまおうという相談がまとまった。
 運ぶのが大変なものは、別の日に、父と兄たちが知り合いから馬車を借りて運んでくれるという。
「こっからそんなに遠いわけでもねえ。何度でも往復するさ」
 父の言葉に母も笑顔でうなずいた。
 共栄と朱鞠内の距離は山道で四キロほど隔たっていた。
 わたし自身、毎日中学校に通っている距離だから、冬場だって子供の足で往復できる距離ではある。遠くないといえば遠くない。おなじ幌加内町内だといえば幌加内町内だ。

 しかしながらこの四キロの距離は、わたしたち共栄生まれの者にとってはとても重要な意味があった。
 遠く岐阜県から祖父母を含めた十二軒の農家が共栄に入植したのは大正年間のことである。
 明治のはじめに開拓使が置かれて北海道の開発が急務となった。大正時代はそれからわずか半世紀あとであったが、肥沃な土地や比較的暖かい土地、資源のある土地などは、すでに内地から来た大企業や大富豪が所有しており、零細な開拓農家が入っていける土地はほとんど残っていなかった。
 たとえゼロからであっても土地がもらえて、開拓を許される土地というのは、
「こんなところに人が住めるの?」
 と言われるような劣悪な条件の場所ばかりであった。

 幌加内町でも事情は同じで、昔から自然資源が豊かであった朱鞠内には新参者が参入する余地はなかった。雨竜川沿いに密林を踏み分け踏み分け登った地域、狩人以外は人間が入ることのない地域、わたしの祖父、上野光五郎はその未開の原生林を、自分たちの墳墓の地と決めたのである。
 入植のとき光五郎はまだ三十前の青年であった。
 彼は家族や仲間と力を合わせて家を作り、道を拓き、畑を耕し、家畜小屋を建て、井戸を掘り、さらにはこの地域では珍しかったデンプン工場を建設して事業を始めた。
鉄道の支線が共栄まで伸びたのも、村に小学校が建ったのも、祖父の尽力が大きかった。
 ところがまだ五十一歳の働き盛りのとき、線路に迷い込んだ小さな女の子を救助しようとして、一緒に轢死してしまったのだ。あとには祖母と八人の子供たちが遺された。
 長男だったわたしの父は学校にも行かず、ゆえに読み書きを知らず、家計を支えるために働き続けたのである。
 共栄の家には、道には、橋には、畑には、わたしの祖父や祖母や一族の血と汗と涙が染みこんでいるのだった。

 引っ越しは新しい生活へのスタートだ。わたしも希望を感じないわけではなかった。
しかし共栄にまつわる思い出が頭をよぎるたび、胸がざわざわして涙があふれるのをとめることができなかった。
「なんでこんなに悲しいんだべ。でもよ、きっとまた帰ってくるべさ」
 心に固くそう誓って、わたしは古里の景色を目に焼き付けようと、何度もまばたきを繰り返した。

雨竜川第二弾 悲しみの彩り

 小学校三年生のとき、きょうだいのように大切にしていた馬のアオが死んだ。
 四年生になる直前に大親友の良子ちゃんが引っ越して行った。
 四年生の秋の終わりにもも子ちゃんが事件に巻き込まれて、家族で引っ越して行った。
 まつ子姉、たけ子姉は中学を卒業すると、それぞれ遠くに奉公に出てしまった。
 別れはいつも暗闇が襲い来るような感覚で、わたしの心を冷たく苛んだ。
 ちょうどひとりぼっちで取り残されて、相手の姿も声も聞こえないところで、
 わたしの心の中の声だけが、相手の名前を繰り返し、繰り返し、繰り返して呼ぶ。
 そのころまでの悲しみの彩りは決まって黒い色をしていた。

 中学二年の晩春、わたしは新しい悲しみの色を知った。
 それは真っ白で、わたしの四方に壁のように立ちはだかって、うねうねと周囲でうごめくのだが、ときどきビシッという音とともに亀裂が入り、そこから真っ赤な血が噴き出すのだ。これは自分の心の中の話である。悲しみの彩りには赤い血の色もあるということを知った。

 朱鞠内の中学は、東京の中学などとは比べものにならないくらい、生徒数が少なかった。東京で同年配の人から話を聞くと、
「一九七〇年ごろといえば生徒数がウナギ上りに増えていた時代さ。三階建ての新校舎が建っても二年、三年だけでいっぱいになってしまってね」
「校庭にカマボコみたいなプレハブ校舎を建てて、一年生はそこを使うんだけれど、安普請でさ。夏は暑くて冬は寒くて、それはもう大変だった」
 などと説明される。ひとクラスも四十五人から五十人が定員だったそうだ。

 その当時、北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内にあった私が通っていた中学校は二年生が二十人、二学期の途中で女の子が一人引っ越して行ったから十九人だった。
全校生徒合わせても六十人もいない。

 山奥の閉ざされた共栄という村から通っているわたしにとって、じもとの朱鞠内小学校から進学してきた子たちは、ずっと良い家庭の子ばかりが通っているような感覚がした。
 一家の末っ子で親兄弟から甘やかされ、共栄では人怖じなどしたことのなかったわたしだが、朱鞠内の中学校では勝手が違ってなかなか友達ができないでいた。
 わが家と同じく共栄から通っている友ちゃんだけが、お互いに気を遣わずに語り合える友達だったが、その友ちゃんが、お父さんの仕事の都合で、二学期の途中で転校することになったのである。

 このところ少しずつ親しくなっていた朱鞠内出身の文江さんと二人で、友ちゃんの家までお別れに行くことにした。私は同じ村の友ちゃんの家には小さいときからよく遊びに行っていたが、文江さんは初めての訪問だった。
 文江さんは友ちゃんの家がとても小さいのを見て驚き、屋根のノキが自分の頭より低い位置にあるのを見て驚き、窓ガラスにひびが入っていてセロテープで補修してあるのを見て驚いていた。
 そして友ちゃんのお母さんが出してくれた湯呑の中身が、じつはお茶ではなくてただの白湯だったのに気づくと、もう口をつけようとしなかった。

 友ちゃんの家から帰るとき、友ちゃんは少しのあいだ見送ってくれた。
 三人で並んで歩いているとき、文江さんは突然、
「共栄の人たちって、とても貧乏なんだね。わたしビックリしたよ」
 と言った。彼女は悪気なくものごとをはっきり言う子だったので、友ちゃんも素直に言った。
「うちはその中でも特に貧乏だからね、仕方がないよ」
 わたしは二人のやり取りにショックを受けた。
 えっ? なに? 貧乏? 貧乏のどこがいけないの。貧乏だから何だと言うの?

 わたしは文江さんの家を見たことがあった。できたばかりの国鉄の社宅だから、それはきれいな家だった。国鉄の力で建てた社宅なんだから当たり前で、人はみんな生まれ合わせたところで生活をしているだけで、貧乏がいけないなどとは思っていなかった。この日、文江さんから面と向かって貧乏と言われて初めて考え込んだ。

 貧乏とはなんだろう。お金がないこと? 洋服がないこと? 食べるものが粗末なこと?
 たしかに我が家でも兄や姉は高校に進学する余裕もなく、中卒で働いていて、とても大変だと思っていたけれど、私たちは一生懸命生きてきた。温かな家族に囲まれて、わたしはなんの不自由も感じないで暮らしていた。

 文江さんは決して、友ちゃんやわたしが貧乏だからいけないと言っていたわけではないと思う。でもなんだか大変そうだなあとか、可哀そうだなあという哀れみ、さげすむような気持を持っていたことも間違いないだろう。
 朱鞠内に住んでいる文江さんたちとは、共栄から来ている連中は違うんだという意識はあったように思う。
 わたしはこの時、心の中でビシーッと鋭い音がして、さけ目から血が噴き出したような気がした。

 物がないのは不便である。そのことで、かかなくても良い恥をかくこともあった。
 修学旅行の直前に集団行動の練習をするためということで、朱鞠内湖への遠足があった。
 ここで生まれ育った子たちにはお馴染みの場所で、珍しくもなかったろうが、転入生のわたしにとってはワクワクする経験だった。
 ところが一つ問題が起きた。担任の森先生が、
「けっこう冷えるから上着が必要だよ。各自、動きやすい上着をお母さんに用意してもらいなさい」
 と言ったのだ。
 わが家にはわたしが外に着て行ける上着はない。
 どうしよう、どうしようと思い悩んでいるうちに、いよいよ明日が遠足の日というタイミングになった。
「かあさん、じつは明日、遠足なんだけど、わたし着ていく服がないんだ。どうしたらいい?」
 わたしは半べそをかきながら母に相談した。
 母は少しの間考えていたが、やがてきっぱりと言った。
「うちには何もないねえ。今からじゃ古着を縫い直している時間もないし、ご近所に借りよう」
 そう言ってわたしを伴い、隣近所を訪ね歩いた。
 わが家は引っ越してきたばかりで、まだ近所と親しくなれていない。
 一軒目、二軒目の家ではすげなく断られてしまった。
 しかし、三軒となりのおばさんは、わたしたちを家にあげてくれて、親身になって話を聞いてくれた。
「あらまあ、可哀そうに。着ていく上着がないのかい。それじゃ良かったら、これを使って」
 と、おばさんは奥から自分のベージュのジャンパーを持ってきた。
 母はそくざに、
「ありがとうございます。ほんとに助かります」
 と言って手をのばし、自分の胸元におしあてた。
 わたしもほっとした。
 もちろん十四歳の女の子が身につけるには地味な色だったが、ぜいたくを言っている場合ではなかった。
 翌日、借りたジャンパーを制服の上に着こんで家を出た。整列して学校を出たわたしは、チラチラと横目で同級生を観察した。女の子たちは色とりどりの可愛い服を着ている。おばさん色のジャンパーを着ていのはわたしだけだった。
 でもわたしは着て行けるものが借りられただけ、とても幸運だったと考えて、貸してくれたおばさんと母に感謝した。

 朱鞠内湖は、雨竜ダム建設に伴って作られた大きな人造湖である。
 秋の湖水は柔らかい日差しを反射し、深いところは紫色に見えた。
 雨竜川の小刻みなせせらぎに慣れた私には、一見まったく動かない湖面が油絵のように感じられた。
 岸辺は深く切れ込んでいたり突き出していたり、丘が湖面にせり出して切り立った崖が境界線だった。
 よく目を凝らすと大小の島々が浮かんでいて、大きな水鳥が羽を休めていた。

 湖畔につくと自由時間がもらえた。みんなは散らばって思い思いに遊びはじめた。
 写生をする子、鬼ごっこをする子、バトミントンをする子、合唱を始める子、それぞれ楽しんでいる。
 わたしは借り物のジャンパーを少しも汚さないようにしようと決意していた。
 そのためには動きの少ない写生をするのがいいだろうと考えた。
 木の切り株を椅子代わりにして、湖面の写生を始めた。
 広く美しくキラキラ輝く朱鞠内湖は絵の題材にもってこいだった。

 最初はジャンパーを汚さないようにと細心の注意を払っていたが、そのうち写生に熱が入って夢中になった。
 ちょっとしたはずみで絵の具が地面に落ち、それを拾おうとかがんだとき、ジャンパーの裾が湿った地面についてしまった。
「あっ、しまった」
 そう思って確かめてみると、泥汚れがついている。
「借り物なのに、汚しちゃった!」
 頭の中が真っ白になった。あわてて立ち上がり、はたいてホロッたけれど、シミになってしまった。
 強くこすったらますます汚れが広がった。
「あんなに気を付けていたのに、汚すなんて……」
 わたしはとても悔しかった。すごく悲しくなった。もう写生をしている気分ではなくなった。帰り道はずっと、
「ああ、この汚れが取れなかったら、どうしたらいい?」
 とハラハラドキドキしながら帰った。
 母に訴えると、すぐに汚れを洗い落としてくれた。わたしはほっと胸をなで下ろした。

 いま考えるとこれも貧しさゆえの苦労だったのか。
 母とあのおばさんがいなかったら、身を刺すような冷たい秋風が吹く中を、薄い制服だけで朱鞠内湖に行かなければならなかっただろう。
 そしたら文江さんたちにまた何と思われたか。
 当時を思い出すたび、着ていく服がないと半べそをかいて母に訴えていた十四歳の自分の顔がよみがえる。
 切なさで胸がいっぱいになる。これを貧乏というのだろうか。

 いよいよ修学旅行が間近にせまった。行き先は道内屈指の観光地、函館である。
担任の森先生が、
「宿の部屋割りを発表する」
 と言った。
「上野さん、合川さん、川田さん」
 森先生がそう発表したので、わたしはとても嬉しくなった。
 わたし、文江さん、小百合さんの三人組だ。
 文江さんは個性的なところはあるが、さっぱりした性格で、友ちゃんが転出したいまはクラスで一番の友達だ。
 小百合さんは無口で大人しい人で、いつも周囲に気遣いしてくれる接しやすい子だった。
「この三人とならば、修学旅行も楽しいべ」
 わたしはそう思ったのだ。ところが次の瞬間、
「いやだー、嫌ですー!」
 教室中に川田小百合さんの泣き声が響いた。
「上野さん、合川さんとじゃ嫌だー。よく知らない人と同じグループは嫌だ!」
 小百合さんは机の上に突っ伏して、ポタポタと大粒の涙を落した。
「イヤです。グループを変えて下さい……」
 と泣きながら訴えている。
 えっ? なに? どういうこと?
 余りに意外な成り行きに、わたしは固まってしまった。
 森先生も宿舎の部屋割りが不満で大泣きされたのは初めてだったのだろう。
 まったく何も言わずに、ただ小百合さんを見つめていた。
 日ごろ自己主張をすることのない小百合さんだから、今回の部屋割りも難なく受け入れるだろうと予想していたに違いない。森先生は咳ばらいをしてから、
「うん、川田さん。わかったから、もう泣かなくていい。隣のグループ奥村さんと代えましょう」
 と言った。
 奥村真由美さんは中学校入学のときによそから転入してきたので、朱鞠内の小学校時代から一緒の仲良しグループではなかった。
 小百合さんは奥村さんと入れ替わったことで、朱鞠内小学校から一緒に進学してきた友人たちと一緒の部屋割りとなった。小百合さんはやっと泣き止んで笑顔になった。

 わたしはこのとき、ものすごくショックを受けていた。小百合さんは大人しくてなにも言わない人だけれど、心の中ではわたしをよそ者扱いしていたのだ。
 わたしはまだ同級生の中では孤立していた。ひとりぼっちなのだ。
 友ちゃんもいなくなって、文江さんとは価値観が合わないところがあり、今日はまた小百合さんからよそ者扱いされてしまった。
 ボロボロと大粒の涙を流して泣いていた小百合さんのことを思い出すと、そんなに嫌われていたのかと、悲しくて心に大きなしこりができてしまった気がした。

 その日は学校の帰り道も一人でトボトボと歩いて帰った。
 通学路の楽しい鳥のさえずりも、笹の葉ずれも、今日はなにも耳に入らなかった。
 その夜わたしは、ひと晩じゅう泣いた。
 人の悲しみの彩りには、相手から傷つけられて真っ赤な血が噴き出たような、そんなものもある。十四歳のわたしには忘れられない悲しい思い出だった。

 その小百合さんとわたしは還暦近くなってから偶然再会して、懐かしい思い出話に花を咲かせた。
 あのとき心を傷つけられたわたしは、もうどこにも存在していなかった。
 幾年もの歳月がわたしの心を強くしていたのだ。
 小百合さんは修学旅行の部屋割りの一件はほとんど忘れ去っていて、わたしたちは新たな友情を築くことに、なんのためらいもなかった。

雨竜川第二弾 ヨモの変死

 ヨモというのはうちで飼っていた黒猫の名前だ。
 つやつやとした長い毛の雑種で、まだ子猫の時にどこからか貰われてきて、いつの間にか家族の一員になっていた。ヨモは大きな体としっかりした骨格を持った、どちらかというと「おデブさん猫」であった。
 自由気ままに暮らしていて、呼ばれても気が向いたときにしか近寄ってこない。
 わたしにも懐いているのかいないのか、はっきりしない態度であった。
 しかしなかなか賢いところもあり、もしもエサをあげ忘れた時でも、自分でちゃんとネズミなどを捕って食べていて、家畜のエサを勝手に食べたり、干してある鶏肉や魚を盗んだりすることは一度もなかった。

 わたしが小学校五年生のときだったと思う。
 黄昏どき、自転車に乗って家路を急ぐ私の前に、大きな黒い塊がパッと飛び出してきた。
「あっ、ヨモだ!」
 とすぐ気づいたが、わたしは避けきれずにその黒い塊にぶつかってしまった。
 大人用の自転車に三角乗りをしていて、コントロールが難しく、どうしようもなかったのだ。
 三角乗りというのは当時、サドルに腰かけたらペダルに足が届かない、背の低い子供たちがやっていた乗り方で、サドルの下のフレームの三角形の穴から片足を通して、器用にペダルを踏みながら乗るのであった。

 その当時、子供用の自転車は村に一台もなかったし、そもそも大人用自転車も一家に一台か、せいぜい二台しかなかったのだ。わたしが乗っていたのも父の自転車だった。
 前輪がヨモの上にがっと乗り上げて、グニャという感覚が伝わった。
 きっとヨモは大きな悲鳴を上げたに違いないが、バランスを取るのに必死だったわたしの耳には、何も聞こえなかった。
 一瞬のちにそのまま後輪ががっと乗り上げて、またグニャっとした。
 自転車はたまらずガシャン!と倒れた。私はハンドルから手を放したので転倒はしなかったが、ヨモはよほど驚いたのだろう、あとも振り返らずに一目散に走り去った。

「うわぁ、ヨモをひいちゃった!」
 わたしは頭の中が真っ白になった。
 こんなに重い自転車に、私の体重まで加わって、二度も轢かれたのだから、きっとヨモは大けがをしたろう、死んだかもしれない。
 自転車をやっと起こして家に帰る途中、
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
 という言葉がくり返し口をついて出た。
 わたしは本当に焦っていた。みんなに何と言おうかと胸がドキドキした。
 物置きで自転車をしまっていると、背中から完ちゃんの声がした。
「どうしたんだ、えみこ。何かあったのか?」
 わたしは、あのさ……といいながら振り向いたが、なんと完ちゃん腕の中にはヨモが抱かれていた。
「えーっ、ヨモ?ヨモ?ヨモだー!」
 わたしは完ちゃんからヨモを奪いとり、心の中でゴメンねゴメンねと繰り返しあやまりながら、何度もヨモの頭をなでた。
 思わず涙がポロポロこぼれた。
 完ちゃんはけげんな顔でわたしを見たが、わたしは何も説明しなかった。

 それからのわたしは、いつもヨモをそばに置き、今までになく愛情を注いだ。最初は勝手がちがってキョトンとしていたヨモも、徐々に私により添うようになってくれた。

 その事故があって三ケ月ほどのち、ヨモの姿が急に消えた。わたしは心配になってあちらこちら探し回ったが、ヨモの行方は全く知れなかった。

 農耕馬のアオが死んでまもなく、わが家では少しずつ農業の規模を縮めはじめていた。人間の力だけではできないことが色々と増えてきてしまったのだ。
 家畜小屋にいた豚もニワトリも飼料や糞尿の運搬がたいへんだからと全部処分されてしまい、家畜小屋は物置になっていた。特に屋根裏部屋には明かりもなく、普段使わないものが乱雑に置かれているだけだった。
 わたしも屋根裏部屋に行く用事などなかったが、勇気をふるってヨモを探しに行った。すると果たして部屋の隅のほうにヨモが寝ている。
「なんだ、ヨモ、そこにいたの。ああ、良かった!」
 わたしはランプを掲げて近づいたが、ヨモは、ピクリとも反応しない。
 何かおかしい。だんだんはっきり姿が見えてきた。
 なんとヨモは血だらけになって死んでいた。
「ヨモ!なんでヨモがこんな目に?」
 わたしはショックのあまり体が固まり声も出なかった。
 ようやくぐるりと回れ右をして、家族に知らせに母屋に駆け戻った。

 ヨモの死骸は母が運び下してくれた。母はわたしに、
「野良猫か何かとケンカでもしたんだろう。ひどくやられてるね」
 と言った。わたしは、
「野良猫なんか、最近見たことないべさ。なんでヨモが殺されなきゃなんねえんだ!」
と叫んだ。
 母に八つ当たりしてもどうにもならないのはわかっていたが、なんとも納得できない突然の別れであった。
 もしケンカでケガをしたのだとしても、早く見つけて手当してやれば、助けられたかもしれなかった。わたしは悔しくて悲しくて、なんともやりきれなかった。胸にぽっかり大きな穴があいたような気がして、しばらくは茫然としていた。
 そして、こんなことがあった屋根裏部屋には二度と行かなかった。

 ずっと後年になって知ったことだが、ヨモの変死は父と母にも別の意味で衝撃を与えていた。
「ありゃ、大きなネズミの大群に襲われたんではないかい」
 そういう母に父もうなずいて、
「屋根裏部屋に置いてあるもんには、みんな齧り痕がある。ネズミのふんもあちこちに落ちてたべ」
 と応じたという。家畜小屋はネズミの巣になってしまったようだ。
 両親は、ここ共栄での生活は、そろそろ見切り時だと考えるようになっていた。

雨竜川第二弾 炊事遠足

 古里の冬景色について東京の人に話すと、
「雪はきれいだろうけれど、冬は大変ねえ。でもそのぶん夏は涼しくていいでしょう?」
 と言われる。本当のことがわかってもらえなていない。
 じつは夏は夏で猛烈に暑いのだ。夏と冬の温度差は五十度、六十度になることもざらにある。
 七月後半から八月はじめにかけては、空気が澄み渡っていて太陽がギラギラと照りつけ、さえぎるもののない河原などにいると、暑いというのも馬鹿馬鹿しいほどの暑さに気を失いそうになる。
 それでも子供のころは、そんな夏が大好きだった。
 小学校三年生の夏休み前のこと、恒例の炊事遠足が行われることになった。
 今年は低学年の部の男子六人、女子五人の参加である。

 教頭先生と田岡先生に連れられて、わたしたちは雨竜川の土手沿いを歩いた。
 三十分ほども歩くと、川幅は狭いけれど、河原が広くて見晴らしの良い場所があった。河原にはごつごつした形の石がいっぱい散らばっている。
 石の種類には詳しくないが、よく見るといろいろな模様と色のものがあった。
 わたしたちは先生がたの指導で、なるべく平らな場所を探してご飯作りの支度をはじめた。
 
 男の子たちは火を焚くためのかまどづくりを始めた。
 女の子たちは飯ごうでごはんを焚いたり、鍋でカレーを作ったりする係である。
 わたしは飯ごう係になった。
 まず、飯ごうに入れたままの米を川の水で研いだ。米粒を落とさないように研ぐのはなかなかコツが必要だ。
 その間に男の子たちは、川原に落ちている木切れを集めて火をおこしていた。
 わたしは持ってきた飯ごうを火にかけた。木切れの燃え方で炎の出方も変わる。
 家できちんと均等に鉈で割った薪をくべるのとちがって、河原で拾ったいろんな形の木切れで火加減を均等にするのはとても難しかった。
 わたしはずっと飯ごうのそばから離れなかった。飯ごうの蓋がカタカタと音を立て始めたら、火を弱くして芯まで熱を通さなければならない。
 田岡先生がそれを見て、
「はじめチョロチョロ中パッパッ、じゅうじゅう吹いたら火をひいて、赤子泣いてもふた取るな」
 と節をつけて歌ってくれた。
「それなあに?」
 とわたしが聞くと、
「ご飯のおいしい焚き方よ。むかしからこう言われているの」
 歌の意味はすぐにわかったから、おもしろい歌だなと思ってわたしはすぐに覚えた。
 先生と一緒に声を合わせて歌っていると、順ちゃんがまだ燃えている木切れを引っ張りだして火加減を弱めてくれた。
 黒く炭になった木を引っ張ったあと、汚れた手で鼻の下をこすったので、順ちゃんの顔には黒いひげが生えたようだった。
 わたしと田岡先生は大いに笑った。

 カレー係の人たちは、ブタ肉、タマネギ、ジャガイモ、ニンジンを包丁で切って、大きな鍋で煮込んでいた。
 食欲をそそるにおいが広がり、急におなかがすいてきた。
 はじめての飯ごうすいさんで、うまく炊けるかどうか心配だったご飯は、蓋をとってみるとふっくらと炊き上がっていた。
 さあいよいよ食事の時間だ。 
 日差しを遮る木立ちもなく、わたしたちはカンカン照りの太陽のもと、思い思いに平たい石の上に座った。
 石は日に焼けて熱くなっている。そのままでは座れないので、少しずらしたり裏返したり工夫する必要があった。。
 わたしたちは早くも汗だくになりながらスプーンを口に運んだ。
「うまいっ!」「おいしい!」
 子供は正直である。
「ご飯もふっくらしていて、おいしいね」
 と、わたしは親友の良子ちゃんからほめてもらってほっとした。
 食事の後片付けを終えたら、水遊びの時間だ。教頭先生が、
「よーし、みんな川に入りなさい。男の子は洋服ぬいで、女の子はぬがなくていい!」
 と大声で指示した。
 ワーッ!とみんなで歓声を上げて、きゃあきゃあ言いながら川に入った。
 海もプールも見たことのないわたしたちだ。
 泳ぐ場所となったら川に決まっていた。
 だからみんな、流れの見極めがとてもうまかった。
 男の子たちは魚のようにスイスイ泳いでいた。
 女の子たちは着ている服が邪魔になって、スイスイとまでは行かなかったが、
 全身を水に浸してプカリプカリとよどみに浮かんでいた。
「冷たーい」「涼しーい」
 みんな大喜びだ。わたしは岸辺にしゃがんでそれを見ていた。
「あら、えみこさんは泳がないの?」
 田岡先生が心配声で聞いてきた。わたしは、
「先生、わたし、川に入れない。水がこわいんだ~」
 と泣きそうな顔で訴えた。
 昨年の秋、どういうわけか夜中に川で溺れそうになる夢を見てからというもの、
 わたしは川に入ることができなくなっていた。
「大丈夫よ。先生と一緒に入ってみましょう」
 先生ははだしになって私と手をつなぎ、川の中に入っていった。
 わたしはへっぴり腰で先生のあとからついて行った。
 少しずつ、少しずつ、水に足をつけて行った。
 川の水は思ったよりも温かかった。
「ぬるま湯みたいね」
 田岡先生が笑って言った。
 膝小僧が水につくかつかないか、水深にしたら二十センチそこそこのところで私は立ち止まった。
「先生、わたしここで泳ぎます」
 そう言ってわたしはうつ伏せになり、腕を突っ張って体を水に浸した。
 そして両足をパシャパシャさせて泳いでいるふりをした。
 田岡先生が安心して他の子のところに行ってしまったのを横目でみながら、わたしは「もういいか……」とつぶやいた。
 そして立ち上がって岸にもどり、熱くなっている石の上に腰かけて身体をかわかした。
 みんなはまだ大喜びで泳いでいる。
 いつのまにこんなにじょうずに泳げるようになったのだろう。
 もう、泳げないのは私だけなんだと思うと少し寂しかった。
 小さいときは全然こわくなかったのに、一度悪夢をみたくらいで、いったいどうして、こんなに水が苦手になってしまったのだろう。


 この日、低学年の部はまだ早い時間に下校した。わたしは何だかずっとモヤモヤしていて、家に帰ってから猫と遊んでみても本を読んでみても、まったく身が入らなかった。
 しばらくして玄関から「ただいまー」という完ちゃんの声がした。
 わたしは完ちゃんを出迎えるために玄関に向かい、彼の顔を見るやいなや、
「おい、完ちゃん。相撲をとろう!」
 と挑んだ。完ちゃんは最初あっけに取られていたが、わたしがしつこく挑発すると、
「ようし、やるか!」
 とカバンを放り投げて挑戦を受けた。
 はっけよい、のこった。
 小学校五年生になった完ちゃんは、ひと回り体が成長し、力も強くなっていた。
 わたしはすばしっこさでは負けなかったから、もろ差しになってぐいぐいしがみつき、完ちゃんを悩ませた。
 何回か相撲を取るうち、完ちゃんが弾みで私の右腕をぎゅっと引っ張った。
 するとその途端、グキンッ!と音がして私の腕は肩からはずれてしまった。
「あ、痛いっ!」
 わたしが叫ぶと完ちゃんも「あっ!」と叫んで動きを止めた。
「痛てててて、かあさ~ん、また、肩がはずれた~」
 わたしが助けを呼ぶと、母がすぐに駆けつけてきてくれた。
 じつは私は子供のころ、よく肩を脱臼するくせがあった。
 だから三年生のときには、もう自分で驚くことはなかったし、痛みも多少は我満できるようになっていた。

「あらまあ、また完二はえみこの肩を抜いたのか。えみことは相撲しちゃなんねえと言ってあったべさ」
 母は厳しく完ちゃんを叱った。
 今回はそもそもわたしが挑戦した相撲が原因で脱臼したのだが、完ちゃんは親や先生に叱られたときに、自分に非があろうとなかろうと、決して言い訳や口答えはしなかった。
 それが時には「ふてぶてしい」と言われて余計に叱られるときもあったが、わたしは「こういうところは男らしい」と思っていた。
 このときも完ちゃんの態度に便乗して、本当のことを言うと自分が母から叱られてしまうので、だまってだらんとした腕を差し出して、包帯を巻かれるままになっていた。
「仕方ねえな。夕方の汽車で治療院に連れていかねば」
 村には医者だけでなく、整体治療をしてくれる整体師さんもいなかった。
 まんいち脱臼したら、ディーゼルカーに乗って一つ先の村まで行くしかないのだ。
「完二、お父さんが帰ってきたら理由を話して、アオで迎えにきておくれと伝えるんだよ」
 叱られっぱなしになってしまった完ちゃんに、悪いことをしたなと思いながら、わたしは母と二人で夜まで過ごせるようになったことがとても嬉しく感じられて、昼間のモヤモヤは、いつの間にかどこかに消し飛んでしまった。

雨竜川第二弾 ヤチブキの花

 古里では井戸や水道よりも、家々の裏を流れている小川こそが生活用水の取水先であり排水先であった。いま考えると納得できないことではあるが、小川は洗濯場であり、ゴミ捨て場であり、それでいて顔を洗ったり口をゆすいだりすることだってある万能の水路であった。

 春の小川は童謡にある通り、いつも水かさはたっぷりと、さらさらと音を立てて流れていた。岸辺にはまだ雪が残っていたが、そのすき間すき間にはフキノトウ、ウド、アイヌネギなどが競い合うように芽吹いていた。
 わが家が洗濯場にしているところにはヤチブキの花がたくさん咲いていた。

 名前から連想するとフキの仲間みたいだが、じつはキンポウゲの仲間であり、小ぶりながら鮮やかな黄色の花をつける。白い雪をまだらに黄色く染めているヤチブキをみると、その絵に描いたような美しい光景についうっとりと見とれてしまうほどであった。
 わが家から上流のほう、少し山の斜面のになっている場所では色とりどりのカタクリが咲いていた。カタクリの花は俯いて咲くのに、その花びらの先は天に向かって逆立ちしているように自己主張をしている。わたしはカタクリの花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れるたびに、何かを語りかけてくるような錯覚を覚えた。

 これらの植物は実はどれも食べることができる。だから母に山菜を取りに行くと言って許可をもらっては、ひとりで岸辺の花を摘んで遊んだ。

 まだ風が寒くても、水が冷たくも、溶けかけた根雪ですべって転びそうになりながらも、美しい花を摘みたくてよく行ったものだ。食べるのは茎や根が主だから、そっくり抜き取って集めるのだが、そこらじゅうに沢山あったから、花がきれいに咲いているものだけを選んで摘み取った。そうすると摘み取るときにウキウキわくわくして、ずっと楽しみが続く。たくさん持って帰ると母に褒められた。

 ところがじつはわたしはそれらの山菜を、いざ食べるときにちょっと苦手で食が進まないのであった。山菜は独特の苦みがあったり、泥くさかったり、草の汁が多すぎたりで、なんだかいつも食べきれなくて残してばかりだった。

 いま東京に長年住むことになって当時を思い出すと、じつに、じつに、もったいないことをした。東京ではそんな新鮮な山菜は、絶対に手に入らないからである。

 ある日、一人で小川の岸辺にいたとき、大型のネズミのようなものが泳いでるのをみた。大きな体をしていても、とても巧みに、水面を滑るように泳いでいる姿に驚かされた。急いで家に戻って、
「かあさん、かあさん、大きなネズミが小川にいたよ。バチャバチャじゃなくて、スイーッスイーッと泳いでた」
 と報告すると、母は、
「それはきっとカワウソだよ」
 と教えてくれた。
 そうか。あれは、カワウソというのものなんだ。
 私は子供心に納得したが、今もそのとき見たカワウソのとぼけた顔を、はっきり覚えている。

 夏の暑い日には一人ではなく、兄の完ちゃんや同級生の順ちゃんと、よく川に入って遊んだ。
 岸辺の浅いところではだしの足を水に浸すと、太陽が照りつけていても暑さを忘れるほど涼しいのだった。そしてまたわたし達は、そろって額から汗がしたたり落ちるほど、一生懸命遊ぶのだった。

 普段はあえて飲み水に使うことはなかったが、こんな日に男の子たちが小川の水を手ですくって飲んでいても、誰も注意したりはしなかった。
 小川での遊びに飽きたら、下流にある雨竜川まで行ってよく魚釣りをした。

 釣り糸と釣り針と鉛のオモリを持って行くが、あとは現地調達をする。
 釣り竿は川の淵でゆれている柳の枝で、エサは、そこらじゅうにいるミミズだった。
わたしは小学校を卒業するくらいまで、平気でミミズをさわることができた。
 気味が悪いと思い始めたのは、釣りをしなくなった中学生になってからである。

 柳の枝の先に釣り糸を結んでオモリと針をつける。そしてミミズを針に付けるのである。柳の枝が短いと、岸に近いところまでしか釣り糸が届かないから、雑魚みたいなものしか釣れない。
「あっ、引いてる!」
 と思って竿をあげてみても、カジカだったりドジョウだったりするので、それらはすぐに逃がしてあげた。
 長い竿で思いきって遠くまで針を飛ばすと、雑魚とは違う手ごたえがあった。
 ビクッビクッと竿がしなったあとに、ぐぃっと強い引きがくる。
 よしっ!と竿をあげると、たいていウグイが食いついていた。
 完ちゃんは釣り名人だ。彼と一緒だとウグイは、おもしろいほどよく釣れた。
 バケツの中を満杯にして家に持って帰ると、母がハラワタを取ってくれる。
 ウグイのお腹のなかには、空気が入った透明の浮袋がある。パンパンに膨らんでいるそれを、プチプチと踵で踏みつぶすのも面白かった。
 母はそれを塩焼きにしてくれた。また開きにして一夜干しも作ってくれた。
わたしは釣るのは好きだったけれど、食べるのはあんまり得意ではなかった。

 今ではミミズを触れないのはもちろん、釣り堀で釣った魚さえも触れなくなってしまった。あのときもっと新鮮な川魚を食べておけば良かったと思うが、あとの祭りである。

 小学校二年生の時だった。夏が終わり秋になったころ、わたしは夜中に怖い夢を見た。
「あ~ん、あ~ん」
 みんな寝しずまっているというのに、家じゅうにひびきわたるほど、大声で泣いてしまった。おどろいた母が、
「えみこ、どうしたの?」
 とすばやく抱きかかえてくれたが、わたしは悪夢のショックでしばらくの間、しゃくり上げでいた。
「川に入ってたの。(ヒック)そしたらね、転んだのに(ヒック)、誰もいなかったの。フェ~ン」
 私は泣きじゃくりながら、やっと言葉をしぼりだした。
「こわい夢を見たんだね。よし、よし、もう大丈夫だよ。」
 やさしい母の声を聞くと安心した。それでも思いだしては泣き、そのたび母がギュッと抱きしめてくれた。

 悪夢の内容は六十年近く経った今でもなお、はっきりと覚えている。
 うす暗い川のまんなかでわたしは一人で立っていた。まわりには誰もいない。
水かさは膝小僧くらいあった。岸に戻ろうと思って歩いていると、突然、石につまずいてステンと転んだ。
 あわてて起きあがったけれど、足をすべらせてまた転んだ。もう全身びしょぬれだ。
 これ以上、立ちたくても立ちあがれない。冷たい、心細い~、こわい~。
 水の中で尻餅をついて座わった状態で、わたしは思いっきり助けを求めて泣き叫んだのだった。

 おかしな夢だ。わたしはこの夢のせいで、それ以降、水に漬かるのが怖くなった。
 夢で水が怖くなるなんて、どうかしてると思うけれど、本当に二度と川で泳ぐことはできなくなった。

 冬の日も裏の小川が洗濯場であることに変わりはなかった。
 まじめな母は、洗濯物がたまると雪が積もっていても、
「今日は洗濯に行く」
 と言って外に出て行った。
 こんな雪の日に母が可哀そうだと思ったわたしも、一緒についていくことにした。

 もう雪が三十センチほども積もっていて、裏の小川まですぐだと言っても歩くのさえ困難だった。わたしは何の手伝いもできないが、せめて洗濯をしている母の、時間つぶしの話し相手になれたら良いなと思っていた。

 洗濯籠を持っている母と手をつなぎ、雪で滑って転ばないように気をつけながら岸辺に下りた。わたしはもうそれだけで疲れを覚えた。

 小川は半分、雪がつもって埋もれていたけれど、それでももう半分は水がサラサラ流れていた。

 母が、衣類に洗剤をつけて洗いはじめた。
 つぎに水の流れにそって洗濯ものをバシャバシャ動かしてすすぎはじめた。
 母の手は、冷たい水で真っ赤になっていた。

 私は雪をうらめしく思った。

 夏は素足で小川に入れたのに……それがまた、ずいぶん気持ち良かったのに。
 わたしは母の気を紛らわそうと、得意のしりとりで母に挑んだ。
「ああ、今日はえみこのおかげで時間が早く過ぎた。楽しかったよ、ありがとう」
 そう言われて、わたしはとっても満足だった。

雨竜川第二弾 かつ丼の絵

 明治百年は北海道開拓百年と同義だということで、札幌市に前年できたばかりの北海道立美術館では、道内全域から秀作を集めた大規模な絵画展が開かれることになった。
 昭和四十四年、わたしが中学二年生のときの話である。

 絵が好きな秀一兄が、
「こういう展覧会は滅多にあるもんじゃねえ。えみこ、一緒に見に行かないか」
 と誘ってくれた。
 戦後モダニズムを代表する著名な洋画家の作品も、たくさん展示されているという。

 札幌、美術館、モダニズム、絵画展のどれもが、田舎住まいのわたしにはまったく縁のないものばかりで、十四歳の少女の胸をときめかせるのに十分だった。

 わたしは二つ返事で承諾し、一週間も前から興奮してろくろく眠れなかった。
 当日、わたしはセーラー服姿で兄と二人、いそいそと家を出た。
 共栄から札幌へは、ディーゼルカーで四時間もかかる。車中からの風景もものめずらしかったが、大都会札幌に着いたわたしは何もかもに圧倒されて息苦しいほどだった。

 見たこともない広い道路に、ものすごく沢山の人たち。彼らを何が待っているのか、ほとんどの人が飛ぶような速度で歩いている。車の数もすごい。特に乗用車をこれほどの数見たのは、生まれてはじめてだった。

 美術館には驚くほどの数の絵画や彫刻が展示されていて、勝手のわからないわたしは、最初のほうから展示物に見とれてしまい、兄にちょくちょく背中をつつかれながら先に進んだ。

 夕方近くなってようやくお昼ご飯をたべようということになり、兄がこぎれいな食堂に案内してくれた。注文を取りに来た女給さんに、
「カツ丼ふたつ」
 と言う兄は、普段見ている彼と違ってとても大人にみえた。
 わたしは、カツ丼ってなんだろう?とすごく気になった。
 兄と二人、さきほど見てきた美術館の絵や彫刻の話をしながら、かつ丼というものが来るのが楽しみで仕方がなかった。
 やがてフタ付きの白い丼に入った、湯気が立ち昇る食べ物がわたしの前に運ばれてきた。美味しそうな匂いがプーンと漂ってくる。
 わたしはドキドキしながら、フタをあけた。こんもりと盛られたご飯の上にトンカツが乗っていて、だしと卵がとけあっている。こんな食べ物は初めて見た。思わず身をのりだしてジーと見ていた。

「えみこ、どうしたんだ? あったかいうちに食べな」
 兄のことばに我にかえった。分厚いお肉をとりあげて、口に入れた。
 なに?このお肉、やわらかい~、甘しょっぱい。
 わたしはそれを口にふくんだまま、ニンマリした。
 こんなに美味しい食べものが世の中にあったなんて、まさに驚きである。
 あまりの美味しさに、アッというまに完食した。
 生まれて初めて食べたカツ丼の感想は「びっくらこいた」としか言えなかった。

 札幌を出て旭川まで帰ってきたときには、もうあたりはすっかり暗くなっていた。
 わたしはまつ子姉の奉公先の寮に、秀一兄は中学時代からの友人のアパートに一晩泊めてもらって、明日の朝、一緒に共栄まで帰るのだ。
 姉はわたしを銭湯に連れて行ってくれた。わたしは銭湯も初体験だった。
 真っ裸になって、大勢の知らない人と同じ風呂に入るのは少しばかり恥ずかしかった。服をぬいで浴室に入っておどろいた。あちこちでシャーシャーと音がしている。
 これはシャワーっていうんだよと、まつ子姉が教えてくれた。
 それまでわたしは、洗顔はぬれたタオルで顔をふくだけ。髪の毛は洗面器にためたお湯で洗い流すだけ。こんなに大量に飛びちる水を見たのは初めてだった。
 わたしはシャワーから出てくる水の動きが怖かった。
 それで、いくら姉にすすめられても最後までシャワーを使う気にはなれなかった。
 寮にもどると姉の寝床の隣に布団をしいて、さっそく寝る準備をした。
 姉から、美術館でどんな絵をみてきたのさ?と聞かれたが、何もかも初めて見たわたしには、何一つうまく説明できなかった。
「絵や彫刻を言葉で説明しろっていったって、難しいべさ」
 わたしは苦し紛れにそう言ったが、まつ子姉は、
「そんならここに紙と鉛筆があるから、書いて説明してよ」
 としつこく食い下がってきた。わたしは仕方なく、
「昼ご飯にはかつ丼をご馳走になりました。かつ丼はこんな形をしていました」
 と、かつ丼の絵を描いて姉にみせたのであった。