雨竜川第二弾 ヨモの変死

 ヨモというのはうちで飼っていた黒猫の名前だ。
 つやつやとした長い毛の雑種で、まだ子猫の時にどこからか貰われてきて、いつの間にか家族の一員になっていた。ヨモは大きな体としっかりした骨格を持った、どちらかというと「おデブさん猫」であった。
 自由気ままに暮らしていて、呼ばれても気が向いたときにしか近寄ってこない。
 わたしにも懐いているのかいないのか、はっきりしない態度であった。
 しかしなかなか賢いところもあり、もしもエサをあげ忘れた時でも、自分でちゃんとネズミなどを捕って食べていて、家畜のエサを勝手に食べたり、干してある鶏肉や魚を盗んだりすることは一度もなかった。

 わたしが小学校五年生のときだったと思う。
 黄昏どき、自転車に乗って家路を急ぐ私の前に、大きな黒い塊がパッと飛び出してきた。
「あっ、ヨモだ!」
 とすぐ気づいたが、わたしは避けきれずにその黒い塊にぶつかってしまった。
 大人用の自転車に三角乗りをしていて、コントロールが難しく、どうしようもなかったのだ。
 三角乗りというのは当時、サドルに腰かけたらペダルに足が届かない、背の低い子供たちがやっていた乗り方で、サドルの下のフレームの三角形の穴から片足を通して、器用にペダルを踏みながら乗るのであった。

 その当時、子供用の自転車は村に一台もなかったし、そもそも大人用自転車も一家に一台か、せいぜい二台しかなかったのだ。わたしが乗っていたのも父の自転車だった。
 前輪がヨモの上にがっと乗り上げて、グニャという感覚が伝わった。
 きっとヨモは大きな悲鳴を上げたに違いないが、バランスを取るのに必死だったわたしの耳には、何も聞こえなかった。
 一瞬のちにそのまま後輪ががっと乗り上げて、またグニャっとした。
 自転車はたまらずガシャン!と倒れた。私はハンドルから手を放したので転倒はしなかったが、ヨモはよほど驚いたのだろう、あとも振り返らずに一目散に走り去った。

「うわぁ、ヨモをひいちゃった!」
 わたしは頭の中が真っ白になった。
 こんなに重い自転車に、私の体重まで加わって、二度も轢かれたのだから、きっとヨモは大けがをしたろう、死んだかもしれない。
 自転車をやっと起こして家に帰る途中、
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
 という言葉がくり返し口をついて出た。
 わたしは本当に焦っていた。みんなに何と言おうかと胸がドキドキした。
 物置きで自転車をしまっていると、背中から完ちゃんの声がした。
「どうしたんだ、えみこ。何かあったのか?」
 わたしは、あのさ……といいながら振り向いたが、なんと完ちゃん腕の中にはヨモが抱かれていた。
「えーっ、ヨモ?ヨモ?ヨモだー!」
 わたしは完ちゃんからヨモを奪いとり、心の中でゴメンねゴメンねと繰り返しあやまりながら、何度もヨモの頭をなでた。
 思わず涙がポロポロこぼれた。
 完ちゃんはけげんな顔でわたしを見たが、わたしは何も説明しなかった。

 それからのわたしは、いつもヨモをそばに置き、今までになく愛情を注いだ。最初は勝手がちがってキョトンとしていたヨモも、徐々に私により添うようになってくれた。

 その事故があって三ケ月ほどのち、ヨモの姿が急に消えた。わたしは心配になってあちらこちら探し回ったが、ヨモの行方は全く知れなかった。

 農耕馬のアオが死んでまもなく、わが家では少しずつ農業の規模を縮めはじめていた。人間の力だけではできないことが色々と増えてきてしまったのだ。
 家畜小屋にいた豚もニワトリも飼料や糞尿の運搬がたいへんだからと全部処分されてしまい、家畜小屋は物置になっていた。特に屋根裏部屋には明かりもなく、普段使わないものが乱雑に置かれているだけだった。
 わたしも屋根裏部屋に行く用事などなかったが、勇気をふるってヨモを探しに行った。すると果たして部屋の隅のほうにヨモが寝ている。
「なんだ、ヨモ、そこにいたの。ああ、良かった!」
 わたしはランプを掲げて近づいたが、ヨモは、ピクリとも反応しない。
 何かおかしい。だんだんはっきり姿が見えてきた。
 なんとヨモは血だらけになって死んでいた。
「ヨモ!なんでヨモがこんな目に?」
 わたしはショックのあまり体が固まり声も出なかった。
 ようやくぐるりと回れ右をして、家族に知らせに母屋に駆け戻った。

 ヨモの死骸は母が運び下してくれた。母はわたしに、
「野良猫か何かとケンカでもしたんだろう。ひどくやられてるね」
 と言った。わたしは、
「野良猫なんか、最近見たことないべさ。なんでヨモが殺されなきゃなんねえんだ!」
と叫んだ。
 母に八つ当たりしてもどうにもならないのはわかっていたが、なんとも納得できない突然の別れであった。
 もしケンカでケガをしたのだとしても、早く見つけて手当してやれば、助けられたかもしれなかった。わたしは悔しくて悲しくて、なんともやりきれなかった。胸にぽっかり大きな穴があいたような気がして、しばらくは茫然としていた。
 そして、こんなことがあった屋根裏部屋には二度と行かなかった。

 ずっと後年になって知ったことだが、ヨモの変死は父と母にも別の意味で衝撃を与えていた。
「ありゃ、大きなネズミの大群に襲われたんではないかい」
 そういう母に父もうなずいて、
「屋根裏部屋に置いてあるもんには、みんな齧り痕がある。ネズミのふんもあちこちに落ちてたべ」
 と応じたという。家畜小屋はネズミの巣になってしまったようだ。
 両親は、ここ共栄での生活は、そろそろ見切り時だと考えるようになっていた。